『只見線 敷設の歴史』一城楓汰/彩風社【鉄の本棚 22】その4
1962年(昭和37年)〜1971年(昭和46年)
只見線全通
只見線で最後に残った未成区間、大白川・只見間23.7kmは「六十里越」という難所でした。剰りにも険しい行程が実際の23kmほどを「六十里」と誇張されて呼ばれてきたのでした。
一方、国鉄の経営にとって赤字ローカル線の問題がクローズアップされ出した時期でもあります。正に只見線も赤字路線と注目されますが鉄道を代替する交通機関のバスが豪雪地帯故に冬期は運行できないため只見線は廃止論議を免れました。
※会津坂下駅
そして只見線全通に大きな力を発揮したのが小出只見線全通期成同盟会〜新潟福島両県期成同盟会の田中角栄会長だったのです。
田中角栄氏は以下の要職を歴任します。
1957年(昭和32年)郵政大臣
1961年(昭和36年)自民党政務調査会長
1962年(昭和37年)大蔵大臣
1965年(昭和40年)自民党幹事長
1971年(昭和46年)通商産業大臣
1972年(昭和47年)内閣総理大臣
1962年(昭和37年)鉄道建設審議会で只見線延伸が決定されます。この時、田中角栄氏は自民党政調会長、そして鉄道審議会の小委員長を兼任していました。言わば”お手盛り”で只見線の全通は決定されたのです。
1964年(昭和39年)日本鉄道建設公団が設立されます。鉄建公団の予算は大蔵省管轄。当時の大蔵大臣は田中角栄氏なのです。
※会津坂下駅
鉄建公団による工事は順調に進み、1970年(昭和45年)には六十里隧道6359mが貫通。1971年(昭和46年)8月、只見線は全通、会津若松〜小出間の営業運転が始まりました。1920年(大正9年)に只見小学校で開かれた小出・柳津・古町鉄道期成同盟会から半世紀51年の時間がかかったのでした。
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只見線の全通を祝うセレモニーの映像をNHKのドキュメンタリー番組で視た記憶が残っています。1971年ですから映像はカラーのはずですが、記憶の中で打ち振られる日の丸の小旗は何故かモノトーンです。そのドキュメンタリーは只見線全通が同時に新たな赤字路線誕生であるという、些か沈痛なトーンだった様です。
『只見線 敷設の歴史』を読むことで、車窓の素晴らしい只見線が如何に難産の末に誕生したかがよく分かります。2014年2月に刊行された本なので只見〜会津川口間の復旧決定以前です。行間から抑制されていますが著者の只見線に対する熱い思いが伝わってくる好著です。巻末の只見線敷設年表も労作。200ページ足らずですが、歴史と社会状況から見た只見線敷設が極めてよく分かりました。
※会津坂下駅
2022年度に不通区間の只見〜会津川口間が復旧の予定です。都会に暮らす者にとって只見線は時折乗りに出かける特別な線区ですが、地元の方々には日常を委ねる大切な公共交通。1日も早い完全復旧を祈ります。
(写真・記事/住田至朗)