読鉄全書 池内紀・松本典久 編 東京書籍【鉄の本棚 23】その11
日本の近代化とともにあった鉄道(2017年)
著者の今尾恵介さんは地図の専門家ですが鉄道関係の著作も多く私も何冊か読んだことがあります。この文章は本書のための書き下ろし。
日本で最初に走った電車?
何と明治23年(1890年)東京・上野公園の第三回内国勧業博覧会をアメリカ製の電車が有料のアトラクションで走ったのが嚆矢だそうです。
一般の乗客を運ぶ電車は京都が最初。明治28年(1895年)琵琶湖疏水の水を蹴上で落として作った電気で京都駅前から伏見区までの街道上を走った京都市電の前身。
関東では、明治32年(1899年)川崎大師門前から六郷橋のたもとを結んだ大師電気鉄道という路面電車。京浜急行のルーツです。
千葉県では、明治43年(1910年)成田駅前から新勝寺山門までの約1kmの成宗電気鉄道が最初。翌年には路線を義民佐倉宗吾を祀った宗吾霊堂まで延伸。「両参り」をアピールして多くの参拝客が集まったそうです。
この頃は、電車のユーザーは参拝者で、サラリーマンや通学などの用途はほとんどなかったのです。
状況が劇的に変わったのが第一次世界大戦。日本は参戦しますが、戦場はヨーロッパ、所詮は対岸の火事。むしろ工業化の緒についていた日本は戦火のヨーロッパに換わって工業生産が飛躍的に伸張。労働者は工場に電車で通う様になります。人々の移動が増加すれば商業、サービス業も発展します。
商工業の拡大は企業の中間管理職という「中流階級」の層を厚くします。これは中等・高等教育を受ける子弟層を生みだし、旧制中学、高等女学校、専門学校、大学などが新設され新たに通学という需要が発生し鉄道の旅客輸送も増えます。
東京への一極集中が問題視されていますが、その萌芽がこの時代に始まっていました。昭和3年刊行の『帝国鉄道年鑑』に拠れば、目黒駅の大正3年(1914年/第一次世界大戦開戦)年間乗車数は43万人。それが大正15年=昭和元年(1926年)には633万人と12年間に約15倍という驚異的な増加を示したのです。他の駅も同様だったのです。
つまり人口が爆発的に増えたのです。
品川区の西部は昭和22年(1947年)まで荏原区でした。日本で最初の国勢調査が行われた大正9年(1920年)に、当地は平塚村で8522人、昭和5年(1930年)には13万2108人と10年間で15.5倍に増えているのです。
その背景には、大正9年(1920年)には鉄道路線が皆無だったこのエリアに、大正12年に目黒蒲田電鉄、昭和2年には同電鉄大井町線と池上電気鉄道(現・東急池上線)と相次いで鉄道が開業したのです。人々の移動が鉄道によって劇的に便利になった故に住民が増えたのです。
あまり大雑把にまとめたくはないが、大正から昭和戦前期の短い間に、日本の鉄道はまさに驚嘆すべき進歩を遂げた。敗戦後わずか19年で東海道新幹線が日本に生まれたのは決して「奇跡」ではない。〈中略〉とくに大正から昭和戦前期にかけてのライフスタイルの変貌に伴う、人口増加をはるかに上回るスピードで急増した利用者数に即応しつつ、切磋琢磨の中で積み上げられた鉄道システムの発展の延長上に、必然的にこの高速輸送システムである「新幹線」は、象徴的に誕生したのである。本書 p.214
現在、鉄道各社がかかえる問題は日本全体の人口減少。これは鉄道会社の努力だけで打開できる様な単純なものではありません。
JR北海道が「自力で維持するのが難しい」とする路線を発表し世間に衝撃を与えた一方でリニア中央新幹線の様な右肩上がりの思想から脱却できない路線も現実に建設されつつあり、今後の鉄道のあり方に対する本質的な議論が求められそうだ。本書 p.215
今尾氏も言う様に、リニア中央新幹線は完全な時代錯誤だと私も同意します。人口が減少し静かに衰退してゆく日本にとって重要なのは廃止されてしまった三江線や、廃止される夕張支線の様な過去の産業遺産を最小限のコストで維持し、将来の日本人に伝えてゆくこととであると思います。
(写真・記事/住田至朗)