読鉄全書 池内紀・松本典久 編 東京書籍【鉄の本棚 23】その10
堀内敬三さんの「機関車随想」(1948年)
この堀内敬三さん、凄い経歴です。1897年(明治30年)浅田飴本舗の三男として神田で生まれました。1917年(大正6年)渡米。ミシガン大学で大好きな蒸気機関車に縁がある自動車工学・機械工学を学び、さらにマサチューセッツ工科大学で応用力学の修士号を取得。高額の仕送りで週末は住んでいたボストンからニューヨークに寝台車両で通って演奏会・芝居に親しみました。
帰国後は、1926年(昭和元年)に作詞作曲した「若き血」(慶應義塾大学応援歌)のヒットで音楽の道に進むことをようやく許されNHKの洋楽主任になります。松竹蒲田撮影所音楽部長、日大教授を兼任。音楽の友社を設立。戦後は、日本音楽著作家組合(現・全日本音楽著作家協会)初代会長。1949年(昭和24年)からはNHKラジオ「音楽の泉」司会進行と解説を1959年(昭和34年)まで10年間務めました。
自他共に認める鉄道ファン。音楽・鉄道・電気・化学・歴史・地理・国文学・和歌俳諧・歌舞伎・落語などの博識で有名でした。紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章。1983年に亡くなられています。
のっけからフランスの作曲家オネッガーが1924年(大正13年)に発表した交響詩『パシフィック231』を取り上げて、この”パシフィック”が機関車の車輪配列の種別による形式名で、フランスのパシフィック型機関車番号の始めに231が付く急行旅客用大型機関車で、作曲家はこの巨大な鉄の怪物を音楽的に表現したものである、という話から始まります。要は先輪2動輪3従輪1、国鉄式では2C1となります。
要は作曲家オネッガーが機関車を熱愛するのと同様に著者堀内さんも機関車を熱愛しているのだというのです。
機関車への憧憬はその活動力に起因し、速力の早い機関車が特に好みだとして、東海道線で活躍していた英国製機関車D9の清楚な姿、横須賀急行を牽いて時速62キロで走った姿を追憶します。
明治5年の鉄道開通式、お召し列車を運転したイギリス人機関手が腕前を発揮して1時間の予定を30分で到着して横浜の式場が大慌てになった話。この時の二号機関車が5000号ち改められ沼津構内で働いていたが震災後汐留駅で雨ざらしになって錆びていて60年前の花形機関車の姿に感傷の眼をむけたこと。
明治44年に新しい大型機関車がたくさん輸入されて東海道線が俄然スピードアップされ特別急行が登場したのもこの時だそうです。アメリカから輸入された8900形式というのが日本で最初のパシフィック型機関車で雄大荘厳を極めたものに見えたのでした。この機関車が重音(ドミソの3音を合わせた)汽笛でした。日本鉄道(後の東北本線)にこの重音の汽笛の機関車が通ると「汽笛の音で赤ん坊が夜泣きする」と沿線の住民から苦情が出て、時の日本鉄道課長田中正平博士は恐縮して単音の汽笛に改めました。この田中博士は、純正調オルガンの発明者として世界音響学界の有名人なんだそうです。
六二〇〇形式(昔のD9型)や八八五〇形式は愛人の部に属した。そうして小さい可愛らしい機関車はペットにように思えた。総武線の区間旅客列車を引いていた一〇形式という四輪の小機関車などはペットの方であった。
〈中略〉
明治初年の一号という小さな機関車を見るために、中学三年のとき九州に行ったついでに島原鉄道を通った。そこでめでたく昔の一号にめぐり逢ったのはうれしかった。ミス一号は国有鉄道から島原へ売られたのである。島原で散々苦労した末に、近年に至ってほかのやや新しい中古機関車と交換に足を洗ってふたたび東京へ帰り、交通文化博物館に竟(つい)の住家をもとめた。島原鉄道ではミス一号が石炭を食わないという理由で大変寵愛していたようであったが、鉄道省が懇望するので少々の不経済を忍んで交換したものらしい。本書 p.204
流石に博識ですが、次から次に知らなかった機関車が登場して読んだらすぐにネットで調べて楽しんでしまいます。インター・ネット以前には図書館に行ったりタイヘンでした。マジで便利になったもんです。
(写真・記事/住田至朗)