国鉄を企業にした男

この本は新刊ではない。図書館で鉄道のコーナーを眺めていた時に「国鉄を企業にした」というタイトルが気になって手に取った本だ。考えてみれば明治政府の近代化政策を担ってきた国策鉄道は日本国政府自身が国営事業として直接運営してきたのだ。つまり「役所」であって「企業」ではない。

1870年(明治3年)民部大蔵省→民部省→工部省 鉄道掛 
1871年(明治4年)工部省 鉄道寮
1877年(明治10年)工部省 鉄道局
1885年(明治18年)内閣 鉄道局
1890年(明治23年)内閣 鉄道庁
1892年(明治25年)逓信省 鉄道庁
1897年(明治30年)逓信省 鉄道局
1908年(明治41年)内閣 鐵道院
1920年(大正9年)鉄道省
1943年(昭和18年)運輸通信省 鉄道総局
1945年(昭和20年)運輸省 鉄道総局
1949年(昭和24年)日本国有鉄道 監督行政官庁/運輸省 鉄道監督局
1987年(昭和62年)分割民営化 監督行政官庁/運輸省 鉄道局

敗戦により大日本帝国政府が崩壊した後、国営鉄道は1949年(昭和24年)に日本国有鉄道法に基づき政府が100%出資する公社(特殊法人)として再スタートした。独立採算制が標榜されたが、実質は運輸省の監督下にあり国会の承認なしに運賃も決められないなど自主的な経営などとは無縁の存在だった。結果的に旧国鉄が企業になったのは1987年(昭和62年)の分割民営化以降と言ってもいいだろう。

この本の主人公片岡謌郎(かたおかうたろう/1894年明治27年〜1966年昭和41年、以下敬称略)は東大法学部を卒業し内閣鐵道院が鉄道省になった1920年(大正9年)に27歳で入省している。

1907年(明治40年)鉄道国有法に基づき17の私鉄が買収され、国内の官制鉄道は以後「国鉄」と呼ばれる様になった。翌年、内閣直属の鐵道院が設置された。

鐵道院は片岡の入省する前年1919年には営業キロが9990キロ、従業員16万人という巨大な組織になっていた。1920年(大正9年)鉄道省に昇格し、地方組織の鉄道局も設置された。

キャリア(高等文官試験合格者)がまず最初に現場を経験させられるのは旧国鉄も変わらなかった。片岡は「東京鉄道局書記」の辞令で沼津駅の助役となった。最初から助役というのが凄い。

当時の鉄道省の身分資格は以下の階層的身分秩序で構成されていた。判任官以上が文官任用令に定められた正式の官吏である。それ以下は民法上の雇用関係に基づく身分でしかなかった。

勅任官 奏任官 判任官 / 鉄道手 雇員 傭人

キャリア組は入省と同時に判任官に任用され、1年後に奏任官になる。

片岡は1年後東京に戻り、水戸運輸事務所営業主任、上野運輸事務所営業主任として現場の業務を叩き込まれた。1923年(大正12年)東京鉄道局庶務課文書掛長兼賠償掛長になった。庶務課文書掛長は鉄道局筆頭掛長だった。

同年9月関東大震災が首都圏を襲った。この時片岡は獅子奮迅の働きをした。食糧を確保し鉄道を走らせたのだ。

この様に詳細を辿っていると膨大な量になってしまうので片岡の主な業績を書いておくと「温泉協会」と「鉄道弘済会」の設立がある。

1926年(昭和元年)片岡は在外研究員としてドイツに留学した。ここでドイツ国有鉄道について学んだ。帰国後は東京鉄道局運輸課旅客掛長に就いた。

「温泉協会」はドイツで温泉が科学的効能などで管理されていたことから、タダの「遊山」であった日本の温泉施設を新しい価値観で変革しようとしたのである。1930年(昭和5年)に温泉協会は設立され月刊機関誌「温泉」を刊行した。

もう一つ「鉄道弘済会」は鉄道省の身分制度とも関係するが、要は傭人でしかない現場の職員が事故で身体を欠損し雇用を失っても、あるいは亡くなってしまって残された遺族に何の保証もなく、生活に困窮する者が多かったことを片岡が救済しようと立ち上げたものだ。これには時間がかかった。1932年(昭和7年)にようやく鉄道弘済会は設立された。

1931年片岡は名古屋鉄道局運輸課長に栄転。ここで「国鉄を企業にした」というタイトルの内容が描かれる。要は「お役所体質=サービス精神ゼロ」から「商事的精神=ビジネス感覚導入」というメンタルな改革を行い成功したのだ。

1933年大阪鉄道局運輸課長に転任。ここで防空演習をせまる軍部などと対立し、戦時中の片岡はやや冷や飯を食わされることになる。

片岡は「鉄道用語辞典」を編纂し1935年(昭和10年)に刊行した。これは日本で初めての鉄道に関する辞典として画期的なものだった。

さらに鉄道省運輸局貨物課長として中央に戻った片岡は鉄道貨物の積み卸し・集荷・配達を行っていた「小運送」の前近代的な体質を改善するために曲折を経て1937年(昭和12年)「日本通運」を設立した。今も「日通」として残る企業だ。

1940年(昭和15年)47歳で片岡は勅任官になった。

1941年(昭和昭和16年年)鉄道省を退官し交通学会を立ち上げた。同時に現在の東京メトロ、帝都高速度交通営団法に基づく帝都高速度交通営団の筆頭理事に就任。

しかし帝都高速度交通営団の理事も1943年(昭和18年)50歳で辞めてしまう。

その後は財団法人陸運協力会を立ち上げ理事長に就任。機関誌「陸輸新報」を刊行。敗戦で陸運協力会は解散となったが、財団法人交通協力会が設立され陸運協力会の事業一切を継承。「陸輸新報」は「交通新聞」と改題され発行が続けられた。出版業務は1987年に、今に続く「交通新聞社」に引き継がれている。

1946年(昭和21年)財団法人運輸調査局を設立し「運輸調査月報」を刊行。理事長としても健筆をふるった。

第8章「日本国有鉄道」の創立 は、その後の国鉄の命運を左右した歴史が片岡という高級官吏の立場を通して分かり易く描かれている。

1945年末、片岡は東亜交通学会※の学者を動員して「国鉄を民主的能率的経営への転換する」という提言をした。しかし新たな公共企業の設立はGHQの政府による新たな出資禁止令で潰える。

※1941年(昭和16年)創立、戦後「運輸調査局」という研究所(法人格)と任意団体の「日本交通学会」に分かれた。

国鉄は戦時中の人員不足を補うために年少・女子職員を大量に雇用していたが、戦後の復員などで1946年(昭和21年)夏には職員58万人にまで膨張していた。

1946年(昭和21年)鉄道会議(運輸省最高諮問機関)が「運賃制度」「会計制度」「鉄道財産」「交通銀行」「技術」の専門委員会を発足させた。片岡は「運賃制度」を除く4つの委員会に
属し国鉄改革に深く関与した。

当時の国鉄は1909年(明治42年)に制定された帝国鉄道会計法によって国の一般会計とは異なるルールで管理されていた。しかし現金収支だけが記録され債権債務が計上されていなかった。鉄道財産については減価償却が全く行われず正当な財産価値を示していなかった。駅などからの収入は全て一旦国庫(日銀)に預託され支払資金はこの預託からあらためて引き出していた。

これら悪弊を払拭するための「勘定体系の再編成」「複式簿記の採用」「原価計算制度の確立」を含む改定案が片岡らによってまとめられた。

紆余曲折の結果1947年(昭和22年)国有鉄道事業特別会計法が制定公布されたが、歳入歳出予算は従来通り国会の議決事項のまま残された。資金についても市場を通じての調達、銀行利用による運用の途は全て閉ざされたままだった。

さらに最悪な事態が起こる。国有鉄道運賃法によって、国鉄は旅客・貨物運賃の基本賃率を定めるために国会の議決が必要とされたのだ。

しかし片岡たちはなお国鉄を「自立したマトモな組織」にするための努力を続ける。交通銀行専門委員会だった。大蔵省と日銀は抵抗する。既成秩序の擁護という官僚的姿勢の背後に、巨額の日銭が入る国鉄資金を国庫金から外したくなかったのだ。1947年(昭和22年)の一般会計歳入予算1145億円に対し国鉄営業収入実績は274億円だったのである。

ここにGHQの強力な占領方針が立ちふさがる。全ての官庁組織は勅令ではなく法律に基づくものにしなければならなくなった。1948年(昭和23年)公務員法改正に関する「マッカーサー書簡」が芦田首相宛に出された。

公務員には団体交渉権と争議権がないこと、国鉄・塩・樟脳・タバコの専売事業を公共企業体とし職員に調停仲裁制度の制約付団体交渉権を認める、という内容だった。

結果的に国有鉄道改革の大勢は決した。1948年(昭和23年)第二次吉田内閣が「日本国有鉄道法案」を提出、衆議院運輸委員会での公聴会で片岡が意見を述べている。

特に、片岡の公述は、法案の全般にわたり詳細に問題点を指摘し、法案の修正案まで提案するという出色の内容であった。片岡は、先ず、この法案をみると従来の形態にパブリック・コーポレーションという名称を冠しただけで、官庁経営の重大な欠陥の除去が少しもなされていないと指摘した。次いで、予算の国会承認を資金予算に限るべきこと、運賃は国会の議決ではなく公正報酬の原則に基づき法律で定められた第三者機関で決定すべきこと、現金の取扱について国庫金扱いを廃止すべきこと、会計検査に企業監査の方式を取り入れるべきことなど持論を述べた。 本書 p.265

しかし片岡の提案は無駄に終わる。「日本国有鉄道法案」は無修正で可決成立した。言い換えれば上記の片岡が指摘した欠陥のまま「日本国有鉄道法」が公布されたのである。

「赤字経営転落で、国家財政への補助依存を必要とし、独立採算への意欲と自信が持てなかった鉄道当局と、国鉄財政へのコントロールの継続を狙う大蔵省との利害一致が作用していた」同 p.266

「本来ならば、戦時から戦争直後数年間に進行した資本の食いつぶしに対する政府の補償措置を得て独立採算に移行すべきであったが、そのような措置もなく独立採算制に移行したことは、独占事業である電電、専売にとってはともかく、自動車、航空、海運などのきびしい競争に立つ国鉄にとっては、前途に困難を予想させるものであった」同 p.280

以後、片岡の活動は名目的な公共企業体に自主性を取り戻すための戦いに向けられる。

第9章 国鉄抜本改革への苦闘 にこの経緯が詳しい。その小見出しを列べるだけで内容が想起できる。

・窮乏する国鉄財政
・繰り返される答申無視と画期的改革案

片岡は56歳で日本学術会議会員。亡くなるまで国鉄の改革と交通に関する調査研究に精力を注いだ。1966年(昭和41年)71歳で死去。

片岡謌郎という高級鉄道官吏の生涯を読むことで国鉄という役所を具体的なイメージで知ることができた。1987年(昭和62年)分割民営化に至る病巣は戦前から敗戦直後に胚胎していたことが分かる。

余談だが、芥川賞作家柏原兵三の父君柏原兵太郎氏が片岡の部下として登場し、活躍したことに新鮮な驚きを感じた。38歳で急逝したこの作家の作品を十代の頃に愛読したことを懐かしく思い出した。