向田邦子「中野のライオン」(1979年)

生きていたら向田邦子さんは今年90歳。残念ながら51歳の時に飛行機事故で亡くなってから40年近く経ってしまいました。1970年代のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の原作・脚本というよりも、直木賞受賞以降は作家・随筆家としての方が高名ですかね。

しかし、これは凄い話です。向田邦子さんが20代で編集者、ということは1950年代、たぶん実家の井の頭線久我山から日本橋の出版社に通っていた頃の出来事だと思われます。

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当時の中央線には冷房などありません。夏の夕方、窓を全開で走っても混雑している通勤電車の中は蒸し風呂でした。中野駅から高円寺駅に向かう下りの車窓、向田さんは、見てしまうのです。

お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が坐っている。三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚でぼんやり外を見ていた。
その隣にライオンがいる。たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで外を見ていた。
すべてはまたたく間の出来ごとに見えたが、この瞬間の自分とまわりを正確に描くことはすこぶるむつかしい。
〈中略〉
私は、ねぼけていたのだろうか。
幻を見たのであろうか。
そんなことは、絶対にない。あれは、たしかにライオンであった。
〈中略〉
この時も私は少しぼんやりしてしまい、駅前の古びた喫茶店でコーヒーを二はい飲んでから、うちに帰った。本書 p.358-359

夏の夕方、木造アパートの窓に貧相な男性と勇壮な鬣のライオンが佇んでいたら、誰だって我が目を疑うでしょう。

しかし、混雑する中央線車内でライオンを見た人は向田邦子さんだけだった様なのです。つまり窓に向かって並んでいる周囲は全くの無反応。彼女だけが”見た”のでしょうか。

歳月というフィルターを通して考えると、私のすぐ横にストンと落ちて来た工事人も、赤い自転車の噴水も、春の光の中のハガキの紙吹雪も、そして中野のライオンも、同じ景色の中にいる。〈中略〉記憶の証人は所詮自分ひとりである。〈中略〉そう思って居直りながら、気持ちのどこかで待っているものがある。 本書 p.361

「中野のライオン」が収められた『眠る盃』(1979年 講談社)に続編「新宿のライオン」があります。何と、このライオンを飼っていた人から連絡があって、当人に会ったのです。ライオンは実在していました。

凄い話です。向田さんがライオンを見てから40年後、私自身も同じ中央線で通勤していました。中野から高円寺の区間も含まれます。残念ながらライオンを見ることはありませんでした。

余談、母が向田邦子さんと同じ年の生まれなので、現在90歳で元気な母を見ると、ふと51歳で亡くなった向田さんを思います。四半世紀読み返していないので、何処かに埋まっている向田邦子さんの文庫を探してみようかな。

(写真・記事/住田至朗)