沢野ひとし「夜のしじまの中で聞いた夏の汽笛ー白山郷まで」(2017年)

沢野ひとしさん・・・。椎名誠さんたち「本の雑誌」一派を私は残念ながらほとんど読んでいません。ちょうど「エピステーメー」とか「遊」「NAVI」などの面白い雑誌が出ていた時代で「本の雑誌」には手が出ませんでした。

文章は沢野さんが中華・内モンゴルのハイラルを訪ねた話。不思議な内容で妄想なのか実話なのかよく分かりません。中国の国内便で知り合った中国人女性と北京で再会し、彼女の故郷を鉄道で訪ねる旅です。

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これで第三部がお仕舞い。

最後の第四部 旅と人生。

冒頭には萩原朔太郎の「帰郷」という詩がおかれています。昭和4年の冬、妻と離別し二児を抱えて故郷に帰る、と添えられています。この時の長女が後の作家、萩原葉子さん、萩原朔美さんのお母さんです。

余談です。萩原朔美さんと言えば天井桟敷ですが、1975年(ひゃあ45年前!)パルコ出版から雑誌ビックリハウスを出していました。初代編集長。現在は多摩美の先生を勤め上げて前橋文学館の館長さんです。

で、芥川龍之介さんの「蜜柑」(1919年)。

1919年(大正8年)というと毎回書きますがマルセル・デュシャンがモナリザの絵ハガキにヒゲを描いて”L.H.O.O.Q”(彼女は欲求不満)という作品を創った(?)年です。

当時芥川龍之介さんは横須賀の海軍機関学校の教官、自宅のあった鎌倉と横須賀線で往復してました。夏目漱石門下で仲の良かった内田百閒さんも芥川(東大の後輩)の紹介で海軍機関学校のドイツ語の先生になります。

大船駅〜横須賀駅間が電化されるのは1925年(大正14年)ですから、芥川さんが「蜜柑」を書いた時は蒸気機関車が客車を牽引していた時代。

或る曇った冬の日暮れ、芥川さんは横須賀発の二等客車に坐り発車を待っていました。

私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落としていた。本書 p.444

芥川龍之介さんが自死するのは、8年後の1927年(昭和2年)です。

この項、次回に続きます。

(写真・記事/住田至朗)