トップ画像は、神奈川駅ではありません。神奈川新町駅で撮ったものです。本線の横、新町検車区の作業が行われようとしています。

では神奈川駅に戻って【駅ぶら】します。駅のすぐ横にはJR線と京急線を越える青木橋があります。丘の上、右手に本覚寺が見えています。

日本で最初の鉄道が敷かれた時に、現在の本覚寺と幸ヶ谷公園(旧・権現山)間の丘陵地帯を切り通しにして線路を敷設したことで丘陵の中腹を通っていた東海道が分断されました。切り通しを越えて東海道を通すために1870年(明治3年)に架けられた日本で最初の跨線橋が初代の青木橋でした。現在の橋は1971年(昭和46年)に架けられた二代目。

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青木橋を渡ります。

神奈川駅が本線の上に張りだした駅舎であることが分かります。狭い場所に作られているのです。

橋の中程から神奈川駅を見ています。

ここからは、改めて2020年2月9日(日)に【駅ぶら】の追加撮影に行った時の写真です。ふだん使っているSONY Cyber-shot DSC-WX800を修理(レンズのトラブル)に出したので、同じCyber-shotですがプライベート用のDSC-RX100で撮影した写真になります。

第二京浜(国道1号線・東海道)を渡って、本覚寺への坂道を登ります。

本覚寺の階段下まで来ました。

「神奈川宿歴史の道」の札が立っています。本覚寺は鎌倉時代に臨済宗の寺として創建されましたが、戦国時代に荒廃、天文年間に曹洞宗の寺として再興されました。横浜開港当時、日米修好通商条約を締結したアメリカの外交官タウンゼント・ハリスが自ら地の利、見晴らしなどから、この本覚寺をアメリカ領事館に決めたということです。領事館時代は白くペンキで塗られた山門は、大火、震災、空襲を免れ、この地域に残る唯一の江戸時代建築だと書かれています。

同じ場所から第二京浜(国道1号線・東海道)とJR線・京急線の向こうに見える神奈川駅と青木橋です。

右膝の痛みを堪えながら階段を登って山門です。右に石碑が見えました。

「史跡 アメリカ領事館跡」とあります。当初はこれを見に来たのです。でも階段を登ったので、お寺も見ます。

青木橋と第二京浜(国道1号線・東海道)から分岐した旧東海道・環状1号を見下ろします。横浜駅が近く感じられます。

禅宗(曹洞宗)のお寺なので山門の手前に「不許葷酒入山門」酒と葷(くん=ニラ・ニンニクや生臭い肉・魚)は修業のさまたげになるから寺に持ち込むな、とあります。これは禅宗のお寺の門前にはほぼ必ずあります。

その横には、徳川幕府の外交官で日米修好通商条約に署名し開国に積極的だった岩瀬忠震(いわせただなり)を顕彰する石碑がありました。岩瀬忠震は、安政の大獄で失脚し失意のうちに44歳で病死しました。その後功績が認められ大正時代には正五位が追贈されています。

アメリカ領事館時代に白いペンキで塗られた山門。享保十三年(1729年)頃の建築とのこと。写真では見えませんが「青木山」の扁額がかかっています。本覚寺の山の上には青木城という城があったと伝わっています。

この山門が日本で初めて西洋の塗料(ペンキ)を塗られた純日本建築であった事が縁となって山門を入った所に全国塗装業者組合建立の合同慰霊碑が建てられたと本覚寺さんのホームページに書かれていました。見た時は「何で塗装業者組合なの?」と奇異に思いましたが、納得しました。

アメリカ領事館時代は茅葺きだったという本堂は、神奈川宿大火、関東大震災、戦時下の横浜大空襲などで何度も被災。1971年(昭和46年)に鉄筋コンクリートで再建されています。

地蔵堂。地蔵願王菩薩坐像が安置されています。俗に子育て地蔵とも。

関東大震災で倒壊後に再建された大正時代建立の鐘楼。山門以外で唯一残る戦前の建築と思われます。鐘は戦時中の鉄不足で軍に供出され、戦後の再鋳造です。しかし寺の鐘まで兵器にしなければ戦争を続行できなかった国がアメリカに勝てる道理はありません。

実は青木城跡を探して筆者は本覚寺のさらに山の上をウロウロしました。せっかくなので次回ご紹介します。

【駅ぶら03】京浜急行45 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)