トップ画像は、横須賀線の逗子駅~東逗子駅間の車窓から見える逗子第一運動公園に静態保存されている京急デハ601号。【駅ぶら】で神奈川駅の近くを歩き回っていて、電車の写真が無いので窮余の一策です。筆者と同じ1956年製。京急初の全金属製車体、高性能軽量車です。1966年(昭和41年)600形に形式変更。1984年(昭和59年)に引退しました。2017年(平成29年)4月に撮った写真です。

さて神奈川駅近辺の【駅ぶら】は続きます。本覚寺の駐車場を出て坂を登ります。これがまた急坂なのです。

坂から梁の上に乗った寺院が見えます。

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そう言えば、下の国道の所から本覚寺に向かった時に見えた奇妙な構造のお寺です。コンクリートで組まれた梁の上に乗っているので不思議に思いました。

「神奈川宿歴史の道」の札、浄土宗、瑠璃光山三宝寺。慶長2年(1597年)の草創。伝弘法大師作の薬師如来立像が本尊でしたが第2次世界大戦の戦火で焼失。

ちょっとだけ三宝寺の境内というか中にお邪魔させていただきます。古い字で三寶寺と書かれています。

本堂の脇から神奈川駅方面が眼下に広がります。

三宝寺を過ぎて50mほど急坂を登った所にまた「神奈川宿歴史の道」の札。「鉄道の開通と埋立」とあっては見過ごせません。内容は、

「上図は、明治初年に当地付近から横浜駅西口・高島町方面を写した写真である。青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立地が高島嘉右衛門が請負った鉄道用地である。湾の付け根をショートカットして、鉄道を通した様子がよくわかる。今は横浜一の繁華街である西口あたりは、当時は海の中であった。云々(うんぬん)。

現在の眺望はこの様なものになります。海どころか横浜駅も見えません。

坂の方を見ると三宝寺が見えます。ネットなどで調べて分かったのは、元々は手前の樹木が見える大綱金刀比羅神社と旧東海道沿いに並んでいた三宝寺でしたが、50年程前、先代住職が突然思いついて自ら図面を作って本堂をそのままジャッキアップした様な今の形にしたらしいのです。先代住職は亡くなられているので詳細は分からないそうです。何とも不思議なお寺です。ただ、隣の大綱金刀比羅神社の本殿が崖崩れで倒壊し、30年以上仮殿のままになっていることと何か関係があるかもしれません。

坂道の北側に高島山公園がありました。

ここにも「神奈川宿歴史の道」の札。それによると、この丘は、高島嘉右衛門が別邸を建てていたので高島山と呼ばれていたそうです。鉄道用地埋立など自らの事業の功績をこの丘から望み見て欣然と(楽しげに)心を慰めたことから望欣台と名付けられました。明治10年に建てられた嘉右衛門を顕彰する「望欣台の碑」が残されています。

また歌人として江戸末期から明治初期に活躍した三宝寺の第二一世住職弁玉和尚の歌碑もあります。ちなみに「望欣台の碑」の揮毫(きごう)は弁玉和尚です。

「望欣台の碑」残念ながら弁玉和尚の文字は光線の加減か読めません。横に拓本でも飾っておいて欲しいものです。

高島山公園は二段構えになっていて西側の一段高くなった方に弁玉和尚の歌碑がありました。

これが弁玉和尚の歌碑。こちらも読めません。

ぶらぶらし過ぎだろ~!と言われそうです。が、これからが実は本番。筆者は引き続き青木城跡を探して高島山一帯を小一時間歩き回ったのです。その顛末は次回。【駅ぶら03】京浜急行46 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)