桃のふわり鉄道旅

著者の伊藤桃さんは鉄道アイドル。しかしこの本を一読すれば、アイドルという先入観は吹っ飛んでしまう。彼女は実に正統的でハードな乗り鉄なのである。この本は彼女が2016年1月にJR旅客鉄道全線を完乗した記念に書かれたものだ。

例えば、石北本線の金華駅。この駅は2016年3月に信号所に格下げされた。歴史は古く、1914年(大正3年)に軽便鉄道の駅「奔無加」(ぽんむか)として開業した。1951年(昭和26年)に所在地から金華と改称。交換設備があり、立派な駅舎があった。

多くの労働者が犠牲になったことで知られる常紋トンネルが開通したのも同じ1914年(大正3年)である。トンネルを出てすぐにスイッチ・バックの残る常紋信号所があり、次が金華駅だった。怪談話の頻出するエリアである。

何とこの金華で下車して駅舎で過ごしたことがある、と彼女は書いている。(本書 p.37)鉄道チャンネルニュース546に伊藤桃さんがゲスト出演した時(2016/12/8)にこの時のことを少し詳しく話してくれた。下車時期は今年1月、既に夕暮れになっていたが、ふと金華で降りてみたくなったのだという。

ゲスト出演時の映像。

http://tetsudo-ch.com/9140.html

金華駅名標

次の列車を無人の駅舎で待っていたのだが、電灯は点かずほぼ暗闇、しかも周囲はマイナス10℃、待合室に暖房は無い。剰りの寒さに靴を床に付けていると足先が凍りそうになるのでパタパタと足を上げ下ろししながら、自らを励ます様に大きな声で歌を歌っていたらしい。

金華駅舎

そこに偶然、クルマで駅を見に訪れた老夫婦がやってきて、暗闇の無人駅舎の中、大声で歌う若い女性を見つけ、心底驚かれたらしい。

何しろ、金華駅(現・信号所)は、駅を中心にした半径2000mの範囲にたった6世帯12人という住民の極めて少ないエリアにあるのだ。(2010年国勢調査資料)

これを、よく使われる比喩の「東京ドーム(半径122m)」で言えば「東京ドーム268個」分の広さに12人、つまり「東京ドーム22個当たりに1人」という凄まじい人口の希薄さなのだ。JRの運転士さんが冗談抜きで「人よりも熊の方が多い」と言ったワケだ。

その様な金華駅に、夕刻、誰も居ないと思ってやってきたら、真っ暗な駅舎内で若い女性が歌を歌っていたのだから、そりゃ魂消るだろう。

番組終了後に雑談で彼女は「土合駅も怖かったですよ〜」と言っていたが、本書 p.95〜96にその記述があった。確かに無人の駅、下りは有名な地下駅。しかも周囲は山の中、駅を中心にした半径2km以内には、たった2世帯の4人が住んで居るだけなのだ。言い換えればほぼ無人地帯。ここにうら若き女性がたった1人というのはかなり勇気が必要だろう。

とにかく、伊藤桃さんが選んだのは、JR北海道から11路線、JR東日本は30路線、JR東海7路線、JR西日本が19路線、JR四国6路線、そしてJR九州が12路線という85路線。

圧巻は飯田線の秘境駅で有名な小和田で下車した伊藤桃さん。何と峻険な細い山道を辿って1時間以上かけ塩沢集落まで歩いて行ってしまうのだ。もちろん同じ道で小和田駅に戻る以外に帰り方はない。(林道を使って大嵐まで移動したレポートなどがネット上にはあるが)ここまで来るとアイドルの1人旅とはとても思えない。(本書 p.122〜124)

名松線は家城〜伊勢奥津が2009年(平成21年)の台風被害で不通になり完全復旧したのが今年(2016年)3月だった。さっそく小生は乗りに行ったが伊藤桃さんは代行バスの時期に訪れたと書いている。(本書 p.135〜137)そこでも井関駅で途中下車して駅周辺を散策している。確かに長閑な良い場所だ。

名松線井関駅

とにかく、鉄道に乗って旅をすることの素晴らしさがページから溢れでてくる様な一冊だ。特に好きな路線の記述は、読んでいると再訪したくなって困る。(笑)しかも彼女は魅力的な風景(観光ガイドに掲載されていない様な)を自分の目で探し出しレポートしてくれる。実は古い木造駅舎を含め、彼女の文章を読んで再訪したい駅が目白押しになってしまった。

読めば鉄道アイドルという先入観がアッサリ、気持ち良い程に裏切られる。鉄道の旅が好きなら読んで愉しいことは請け合いである。というか、青春18きっぷの旅をする前に参考書としてぜひ一読をオススメしたい。

彼女は勇気と気概を裡に秘めた、慎ましく穏やかな旅人だ。文章も衒いがなく素直で味わい深い。願わくば定価が少々上がっても良いので写真を全てカラーで出版して欲しいと思った。

そうそう、写真の色合いがちょっと変になって申し訳ないのだが、カバーを外すと彼女が青春18きっぷのポスターなどで有名な下灘駅(JR四国・予讃線)にいるのが分かる、という仕掛けもシャレている。

桃のふわり鉄道旅