猪鼻城跡と千葉氏の歴史【駅ぶら05】京成千葉線233
※2022年8月撮影
トップ画像は、千葉市教育委員会の「猪鼻城跡」の案内が立つ一画。
長くなりますが教育委員会案内の内容を写します。
「猪鼻城はかつて鎌倉時代以来の千葉氏の城とされていました。平常兼(たいらつねかね)の子常重(つねしげ)が大治元年(1126)、上総国大椎(千葉市緑区)から千葉に本拠を移し、千葉という地名を名字とし、千葉常重と称しました。常重の子常胤(つねたね)は源頼朝を助け鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、その功績で北は東北地方から南は九州地方まで多くの所領を得ました。
ところが、これまで猪鼻城跡で行われた発掘調査では、鎌倉時代の城や館の跡は見つかっていません。ここにあった城は、室町時代後期(戦国時代)に千葉氏の有力家臣にあたる原氏により城郭として整備されたものという説が有力で、火葬骨を納めた13世紀の壺が発見されたことから、それ以前は墓域であったと考えられています。
〈中略〉
では、千葉氏が館としていた場所は実際にどこにあったのでしょうか。かつて方形の堀・土塁に囲まれて「御殿跡」と呼ばれた現千葉地方裁判所の場所あたりではないかという説があります。康正元年(1455)、一族の馬加康胤(まくわりやすたね)・原胤房(はらたねふさ)が宗家の千葉胤直(たねなお)を攻め滅ぼした後、千葉氏が本拠地を千葉から本佐倉(酒々井町・佐倉市)に移したことや、遺構や決定的な史料が見つかっていないこともあり、現在も千葉氏の館の場所は明確になっていません。 千葉市教育委員会」
土塁の痕跡と思われる部分に階段と手すりがあります。上ると上の案内にあった火葬骨の入った壺が出土した地点の案内がありました。
※2022年8月撮影
下には「忘れない千葉空襲」の石碑。軍需工場や軍の基地があった千葉も空襲の被害が大きかったのです。
※2022年8月撮影
曇っていますが気温・湿度ともに高く、熱中症にならないように四阿でお茶を飲んで休みました。風に吹かれて汗が乾きます。
※2022年8月撮影
四阿の後に「石器時代之砥石」という碑がありました。
※2022年8月撮影
市立郷土博物館の前を通って駅に戻ります。
※2022年8月撮影
帰路は千葉県文化会館側の亥鼻公園を通ります。
※2022年8月撮影
彫刻が飾られなかなか良い雰囲気です。
※2022年8月撮影
千葉県文化会館の前を横切ります。
※2022年8月撮影
千葉県立中央図書館の階段を下りました。
※2022年8月撮影
県庁前交差点の円形歩道橋から千葉都市モノレールの県庁前駅。
※2022年8月撮影
この日は、暑くて草臥れたので外房線経由で総武線快速~横須賀線直通久里浜行の電車で帰宅しました。JR外房線本千葉駅で久里浜行に乗れたのでラッキーでした。
次回から京成千原線です。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京成電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。