中河原の渡しで多摩川を渡っていました【駅ぶら】06京王電鉄 京王線155
※2023年8月撮影
トップ画像は「御嶽神社」前の道を西に150mほどで着いた「小野宮公園」。
ココにも「府中市由来碑」があります。
※2023年8月撮影
「小野宮」です。
※2023年8月撮影
記載内容は以下です。
「小野宮(おののみや)は、現在の住吉町3丁目の一部(小野神社辺り)に集落の中心があった村落です。
この集落は本宿に属しており『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「本宿村」の小字としてその名が見えます。
小野宮は、近世初頭の多摩川の大洪水によって集落を失いましたが、多摩川の流れが定着したのを機会に旧地へもどり村を再建したようです。
地名の起こりは、この地に小野神社(小野宮)が鎮座することによります。
小野神社は、『延喜式』の神名帳に記されている由緒の深い古社で六社宮(大國霊神社)の「一之宮」に列せられています。」
地図で調べると小野神社は、北に500mほど離れています。猛暑日に往復で1km歩くのは流石に辛いので諦めました。
駅前ロータリーに戻ります。
※2023年8月撮影
「鎌倉街道」に沿って南に歩きます。左は「ひがし通り商店会」右の街道沿いは「南大通商店街」。
※2023年8月撮影
「中河原駅」から約300mで「中河原公園」です。
※2023年8月撮影
公園の入口に案内板があります。
※2023年8月撮影
府中市による「歴史と文化の散歩道」「旧鎌倉街道散歩」という案内板で「中河原渡し」の記載がありました。
※2023年8月撮影
盤面が傷んでいたので読み難かったのですが、写します。
「江戸時代に多摩川は現在より北側の立川段丘崖線下、現在の市川用水のある付近を流れていました。また現在の多摩川流域は浅川でしたので、この2つの川の間にあるところから中河原の名が起こったと言われています。鎌倉街道の関戸橋が昭和12年(1937)に出来るまでは中河原の渡し(渡船場)があり、冬の渇水期には仮橋が設けられました。明治24年当初の記録では、本流の渡船の川幅は50間(約90m)、支流は2本ありいずれも架橋渡しで、その川幅はそれぞれ15間(約27m)11間(約20m)でした。本流の渡船渡しでは平水ならば舟夫1人でたりましたが、平水より1尺(約0.3m)増すごとに1人の増員が必要だったようです。渡し場では通行人から渡船と架橋と別々の渡賃をとっていました。現在関戸橋の袂(府中側)には中河原の渡し碑がたっています。」
1937年(昭和12年)に関戸橋が架橋されるまで人々は「渡し」で多摩川を越えて往来したのですね。
横に「関戸橋(下流橋)欄干と橋名板」が飾られています。
※2023年8月撮影
説明板に拠ると、1937年(昭和12年)に架けられた橋は、2018年(平成30年)まで使われていました。さすがに老朽化によって架け替えられましたが、欄干、バルコニー状橋灯置き場と橋名板2基が記念に保存されています。
※2023年8月撮影
正面からも撮影しました。
※2023年8月撮影
中河原駅に戻ってメインの出入口と反対(南)側の小さな出入口から駅に入りました。
※2023年8月撮影
次回は「中河原駅」から「聖蹟桜ヶ丘駅」に向かいます。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)