※この「私鉄に乗ろう」の写真は、筆者がプライベートな旅で撮影したものです。鉄道会社さんから許可をいただいていませんので、乗車券があれば誰でも入れる場所から、手持ちで撮影したスナップ写真です。ポケットに入るコンパクト・デジタルカメラで撮影しています。写真は2017年1月に撮影したものです。定期運用を外れたA417系電車。

阿武隈急行線は東北本線の勾配緩和のためのバイパス線として計画されました

第2次世界大戦後、まだまだ蒸気機関車が主な動力車だった時代のことです。東北本線の福島駅から宮城県にかけての急勾配の区間がネックとなり仙台以北に向かう優等列車は勾配の緩い常磐線経由で運転されていました。また戦後復興もあって東北本線自体の輸送力増強も急務だったのです。

そこで計画されたのが福島駅〜槻木駅を勾配の緩いバイパス線で結ぶ国鉄丸森線でした。1953年(昭和28年)に改正鉄道敷設法第21号の2「宮城県槻木付近ヨリ丸森ニ至ル鉄道」が追加され、第27号の「福島〜丸森」間と併せて1964年(昭和39年)に着工されました。東海道新幹線が走り始めた年に着工です。

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1968年(昭和43年)に槻木〜丸森間が完成し丸森線として暫定的に開業しました。しかし、皮肉なことに、東北本線には馬力のある新型列車が投入され急勾配がもはやボトルネックでは無くなっていたのです。

むしろ東北本線の輸送力増強は、複線化と電化という方針に転換され国鉄丸森線は宙に浮いた存在となってしまいました。しかも丸森線は優等列車を速く走らせることに主眼が置かれたためにCD線(主要幹線)規格で敷設され輸送力優先の線形を採用したため、人口の多い部分を通らず、町から離れた不便な場所に駅が設けられていました。しかも暫定開業した部分では宮城方面にしか行けなかったので利用者は少なく赤字が膨らみました。営業係数(100円の営業収入を上げるためにかかるコストが)2404円という不名誉な数字が丸森線には残っています。これは、当時の国鉄赤字路線でも最悪の部類でした。1980年(昭和55年)に国鉄再建法が施行されると第1次特定地方交通線に承認されあっさり廃止されることになります。暫定開業からわずか12年でした。

一方、工事は中断されていましたが丸森〜福島間も鉄橋とトンネルは完成していてレールを敷設して駅を作るダケの状態になっていたのです。そこで福島・宮城両県は阿武隈川の観光開発と福島〜仙台間の都市間輸送、近郊開発などが期待できるとして第三セクターを設立し廃止される国鉄丸森線を引き継ぎ、1986年(昭和61年)に暫定開業部分を非電化のまま開業しました。さらに1988年(昭和63年)には未通部分を完成させた上に電化して阿武隈急行線の現在の形になったのです。

紆余曲折の歴史を阿武隈急行は走ります

さて、福島駅のホームは福島交通飯坂線と同じ島式ホームを使っています。福島交通の電車が出発してゆきました。

阿武隈急行側の駅名標です。

槻木方面から列車が到着します。阿武隈急行が1988年(昭和63年)の全通・電化にあわせて9編成18両を導入したAT8100系電車です。既に行先表示が「槻木」になっています。

AT8100系は2両の固定編成です。

運転台、この右側から前面展望を撮ります。

阿武隈急行線は福島駅から矢野目信号場までの区間はJR東北本線の複線区間を走ります。福島交通飯坂線はしばらく並走します。右に福島交通の曽根田駅が見えます。

福島交通とは分かれて松川を渡ります。

矢野目信号場です。東北本線の上りは阿武隈急行線の上りと分岐して上に上がってゆきます。

ここで東北本線は左に、阿武隈急行線は右に分岐します。

阿武隈急行線は東北本線の上り線をくぐります。

そしてすぐに卸町駅です。

案内看板にもある様に周辺は問屋街です。

流石に高規格で工事が進められただけあって、第三セクター化されてから開通した福島〜丸森間も高架線です。福島学院前駅。駅名どおり福島学院大学の宮台キャンパスが駅の横にあります。

瀬上(せのうえ)駅。相対式ホーム2面2線で列車交換できます。

正面から第1阿武隈川橋梁を渡って福島行が来ました。列車交換します。

第一阿武隈川橋梁。貫通ドアと車内が写っていますね。失礼しました。揺れる車内で手持ち撮影、しかも望遠レンズなので失敗が多いのです。

向瀬上(むかいせのうえ)駅。この駅は1日平均乗車人員が20人台と少なくなります。駅の周囲は果樹園が多い様です。

と、福島市内の最後の駅で今回はお仕舞いです。次回【私鉄に乗ろう 38】阿武隈急行 その2 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)