複雑な側線の広がり方【非電化路線に乗ろう03】男鹿線 その5
既に書きましたが、男鹿半島の成り立ちは、北の米代川と南の雄物川河口の土砂堆積で砂州が延びて沖に浮かんでいた離島の寒風山にまで達して半島になったものです。八郎潟はその砂州の間に残った海跡湖だったのです。八郎潟から向こうは基本的に山塊なのです。線路の先に山々が見えてきました。
次の脇本駅を通る南北に切った線から西側は元の離島寒風山、山塊の部分になります。
余談です。サラリーマン時代の上司というか友人が男鹿半島の北、能代に住んでいる縁で能代には何度か行っています。秋田杉の積み出し港として繁栄を誇った能代の町は完璧に衰退して、正にシャッター街を乳母車を押す老人たちがひっそりと行き交うだけの町になっていました。町の中心にある大きなスーパーマーケットも撤退とかで、郊外のショッピングモールに行くことのできない交通弱者の老人たちは買物難民になりそうなのです。
写真は2004年11月の能代、駅前広場に面する店舗がほぼ「売り物件」「貸し店舗」。この後も改善された様子はありません。
地方に行くと、残念ながら極めて頻繁に眼にする光景です。
その友人がクルマで八郎潟のスーパー銭湯に連れてきてくれました。雪はありませんでしたが既に暗くなっていたので、干拓地の奥にあるお風呂まで定規で引いた様な直線を延々と走ったコトを思い出します。すれ違うクルマが少なかった。これが数少ない筆者の八郎潟体験です。
現在に戻ります。線路は真っ直ぐをカーブで繋いでいます。
微妙に勾配が続いてキハ40は少し苦しげに登っていきます。勾配標は10.9パーミル。右奥の少し高い山が寒風山です。
船越駅から4.0kmで脇本駅。
この駅も初めて来た時は複雑な側線の広がり方に驚きました。
男鹿半島の北側に申川油田があります。2001年(平成13年)にタンクローリー輸送に切り替えられるまではパイプラインでこの駅まで運ばれた原油が積み出されていました。
島式ホーム1面2線の右(北)側まで原油パイプラインがのびていて、ここでタンク車に積み替えられてここから約10km、終点男鹿駅の先、船川港まで運ばれていました。現役の線路の横に半ば埋もれた側線が見えます。
駅名標。背後に元パイプラインの跡地が見えています。1914年(大正3年)国鉄船川軽便線(後に男鹿線)の駅として開業。2016年(平成28年)に建て替えられるまで開業以来の木造駅舎が使われていました。
100年以上使われてきた木造駅舎が小さく写っています。右側の青い屋根。奥のJAが工事用ブルーシートを被っているので見難いですね。2014年(平成26年)8月の撮影。
※2014年8月撮影
同じ様なポジションから、今日の復路に撮った写真。
2014年に来た時に前面展望を撮っておけばよかった・・・。後の祭り、五代目古今亭志ん生風に言えば「立たぬ後悔を無理矢理立たせて後から見れば」ってな按配です。
【非電化路線に乗ろう03】男鹿線 その6 に続きます。
(写真・記事/住田至朗)