読鉄全書 池内紀・松本典久 編 東京書籍【鉄の本棚 23】その5

2019.06.11

次は『南蛮阿房列車』などの著作で鉄道好きが有名な作家の阿川弘之氏の「にせ車掌の紀・食堂車の思い出」。

阿川さんは残念ながら2015年(平成27年)に亡くなられました。阿川佐和子さんのお父上です。絵本『きかんしゃやえもん』の作者ですよ。絵は岡部冬彦さん。

東大から海軍予備学生として海軍士官、最終官位は大尉。戦後、軍隊と戦争の不条理を書いた作家です。『春の城』『雲の墓標』など。『山本元帥!阿川大尉が参りました』(元題は『私のソロモン紀行』)など紀行文や鉄道関係の著作も多く書かれました。個人的に好きな作家なので図書館で全集(新潮社2005-2007年全20巻)を借りて概ね読みました。

「にせ車掌の記」(1955年・昭和30年)
阿川さんが東京発「銀河」の車掌になって搭乗した記録。今読むと60年前の国鉄の業務が分かって、むしろ興味深い。これは実際に読んで楽しんでください。

吉田健一さんも書いていましたが、阿川弘之さんも専務車掌に化けているので飲めなかった、と書いています。当時は夜行の停まる駅のホームで生ビールを売っていた様です。

缶切り不要のプルトップ式缶ビールが市場に現れるのは1965年(昭和40年)なので阿川さんが車掌に化けた十年後です。

後年、高校から大学生の頃、70年代の前半です。両親が関西出身で夏休みなどは関西で過ごすことが多かった私は夜行寝台急行「銀河」が大好きでした。新幹線の方が格安でしたが、夜中の駅で長く停車することや扉が手動なので自由にホームに降りて人の居ないホームで深呼吸できることなどが楽しくて寝台急行を愛用していたのです。名古屋駅ホームに長時間停まるので終夜営業していたホームの立喰きしめんを食べるのも楽しみでした。残念ながら2008年(平成20年)に「銀河」は廃止されてしまいました。

阿川さんが車掌に”化けた”昭和30年頃「銀河」は東京-神戸間の運行でした。

「広津和郎先生」1973年(昭和48年)
広津和郎(ひろつかずお)と言われても分からない方が多いかも知れません。戦後国鉄の三大ミステリー事件、逮捕者全員が無罪になって未解決となった「松川事件」(1949年・昭和24年)に関心を持ってフォローした評論家で戦後は熱海在住でした。

阿川さんはこの広津和郎氏が忘れ物の名人であると紹介した上で、或る夜広津さんは新橋で風に舞う千円札を拾って交番に届けました、事務的な手続きで乗る予定の湘南電車を逃して新橋駅に戻った広津氏はポケットからハンカチが出ていることに気付き、拾った千円は他ならぬ自分が落としたものと分かった、という話。

新幹線ができてからも間違えて「ひかり」に乗った広津氏は「名古屋からこだまで熱海に戻って、それでもまだテレビでナイターが見れたよ、便利なモンだねぇ」とごきげんだったそうです。

辛うじて名前を知っている程度の広津和郎氏は戦後世代には気難しそうな陰気なお爺さんというイメージなので、意外な姿を教えられました。

「駅弁」1973年(昭和48年)
昔は車両の窓が開いて駅弁売りがホームにいて・・・、という回顧談ですが、

デパートで全国駅弁コンクールが催されても、死んだ駅弁を買いに行く気にはならない。本書 p.90

これには激しく同感します。というか新幹線以前、東海道本線の特急こだま(東京-大阪6時間半)で良く食べた「冷凍ミカン」が懐かしい。お茶は陶製のものに入っていました。器がプラスチックになって独特のビニール臭がする様になったのは新幹線になった頃?今はペットボトルのお茶が全てですね。

「食堂車の思い出」2004年(平成16年)
阿川少年が昭和十年頃を過ごした広島駅付近の情景が描かれます。「その頃が食堂車の全盛期だった」とのこと。深夜に広島を通過する下関発京都行鈍行列車にも食堂車が連結されていました。たぶん人件費が安かったのでしょう。しかし、ほとんどが和食堂車、阿川少年の憧れは、広島を通る一・二・三等特急の「富士」と同じ一・二・三等編成の急行列車に繋がれた洋食堂車でした。

中学生になった阿川少年が初めて洋食堂車で緊張してコースの定食を食べる話、学生時代の阿川氏が休暇帰省の度に洋食堂車で食事をした際に顔見知りになった美人ウエイトレスさんの淡い思い出など、いわゆる「食堂車」が全廃された現在では味わえない空気です。

昨今は異様に単価の高い観光列車で食事は供されますが、かつての「食堂車」の様に空腹を覚えた乗客が気楽に行って食事のできる「食堂車」は存在していません。

事務的に「運ばれる」か「走るレストランに乗るか」の選択しかないのです。

名古屋に転勤していたサラリーマン時代、ほぼ毎週東京に出張していた新幹線には食堂車がありました。同道した客先と東京を出て名古屋に着くまで食堂車で飲んでいたことなどザラでした。当時は名古屋までひかりで2時間。購入した指定席に坐らなかったことなど何度もあって、百閒先生を笑えません。

ビュッフェなる立喰の簡易食堂車もあって、レトルトカレーをよく食べました。子供の頃は、ビュッフェの壁面に速度計があったので、現在スピードが表示されるのを見にいったものです。

477ページある『読鉄全書』、ここまででまだ100ページにも満たない、つまり四分の一も読んでいないのです。

ちなみに第一章「乗る楽しみ」 が残り5篇。第二章は「鉄道に生きる」第三章「鉄道でみつけたもの」そして最終章が「旅と人生」、今しばらくご一緒に読み進めましょう。

(写真・記事/住田至朗)

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