読鉄全書 池内紀・松本典久 編 東京書籍【鉄の本棚 23】その13

2019.06.19

「高原の軽便鉄道と文学者たちーー草軽電鉄」は、堀内ぶりるさんの書き下ろし。

堀内ぶりるさんも存知あげませんでした。

草軽電気鉄道は、古い電気機関車がJR軽井沢駅近くに保存されているのを何度か見ているので、かつて軽井沢から草津温泉まで軽便鉄道が走っていたことは知っていました。

堀内ぶりるさんは昭和の鉄道が描かれた文学作品を渉猟するのが趣味の様です。

「高原の軽便鉄道と文学者たちーー草軽電鉄」も、堀辰雄(1904-1953)、津村信夫(1909-1944)、三好達治(1894-1980)、田中冬二(1894-1980)、野上彌生子(1885-1985)、岸田國士(1890-1954)という錚々たる、というのか津村信夫さんは知らなかったけど、とにかく堀内ぶりるさんの読書量と博識に圧倒されます。内容も上手く連携されていて頗る読むのが愉しい。

軽井沢駅前で見る不思議な形の電気機関車、草軽電気鉄道の活躍していた姿が、集められた作家達の作品から見える様な気分です。

それ故、この文章は実際に読んでいただいた方が良いと思います。梗概にしてしまうとあまりにも索漠と無味乾燥なのです。

続いては、この本の編者松本典久さんの2本目「専用鉄道の記憶」(2017年)。

清水港線という名前を知った時には既に廃止されていて乗れなかった路線の一つです。鉄道ファンとして目覚めたのが遅かったので、残念ながら乗り損ねた線区がたくさんありますが、その中でも最も乗りたかった線のひとつです。

専用鉄道とは「鉄道事業法」で、国鉄時代に国鉄線を幹に各駅から工場、港、鉱山などに伸びていた線路を一括して呼ぶ名称です。しかし国鉄晩年に、日本の鉄道貨物輸送のシステムが大きく変わったために専用鉄道の大半はひっそりと消えてゆきました。

この東海道本線清水駅から清水港駅を経て三保駅までの8.3kmを結んでいた清水港線は、専用鉄道的な性格の路線でした。

元々は東海道本線の貨物支線として開業、1944年(昭和19年)戦時下にもかかわらず軍事的理由で三保まで延伸、同時に旅客営業を開始しました。ほとんどは貨物のための路線でした。昭和30年代には国鉄一の黒字路線にもなりました。しかしご多分に洩れずモータリゼーションの影響で赤字路線に転落。旅客列車は、下りが清水駅発8:10と、上り三保駅発16:14という日本一運行本数の少ない鉄道路線となってしまったのです。

松本さんは、清水港線がまだ元気だった昭和52年(1977年)に半年間1日1往復の混合列車に乗って通学をしたんだそうです。既に並行バスルートがあって、そちらは本数も多く遥かに便利だったとのこと。

当時の清水駅は西側に駅舎があり、東側には海沿いまで貨物用施設が広がっていました。この構内で清水港線用貨物の入換作業がDD13形ディーゼル機関車によって盛んに行われていて、この機関車がそのまま非電化だった清水港線の牽引機になっていました。

清水港線線用ホームには専用の構内踏切で東海道本線や貨物入換作業の合間に渡ったのでした。

清水港線ホームには、DD13形を先頭に、数両の貨車を挟んで青い客車を4両連結した列車が待機していた。4両の客車は二本の電車の乗り継ぎ客で満員となったが、乗客の大半は沿線に二つある高校生だった。ぼくをはじめ一般の乗客は少し肩身の狭い思いで客車へと乗り込むこととなる。本書 p.253

貨物駅の清水港駅を通過し、清水埠頭駅で三保界隈の工場に勤める乗客が降りて渡船に乗り換えます。列車を利用するよりもその方が早いんだそうです。船優先で普段は上がっている巴川の上下可動式橋梁を渡って巴川口駅。清水駅から20分程で折戸駅。ここで満員の高校生が下車。下車に時間がかかるので常に定刻を過ぎて出発。終点の三保駅に到着。

国鉄の貨物は転換期を迎えます。トラック輸送と親和性の高いコンテナによる拠点間直行輸送に切替え、それまでの貨物操車場は廃止されたのです。これによって例外的なタンク車などによる輸送を除き全国の専用鉄道は廃止となりました。

(写真・記事/住田至朗)


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