京急富岡駅の東側。反対の背中側に進むと国道16号線に出ます。京急バスの富岡バス停からバスに乗って北上しました。

京急バスのバス停富岡から7-8分、180円で鳥見塚バス停に到着。歩くと約30分と書かれていたので2kmくらいある感じです。京急線の900mが道路では倍以上になるのです。ここに1947年(昭和22年)から1955年(昭和30年)まで湘南富岡駅があったのです。

鳥見塚バス停から東側に富岡総合公園が広がっています。かつては日本帝国海軍横浜航空隊の基地でした。終戦後は占領軍GHQの施設が置かれ、そのために専用の駅として湘南富岡駅がバス停の辺りに置かれたことは既に書きました。

富岡総合公園は広さ219,208平方メートル(東京ドーム4.7個分の広さです)。アーチェリー射撃場、テニスコート、金沢区の花である牡丹園などがあります。

筆者が見に来たのは、残されているかつての横浜航空隊隊門です。見えました。鳥見塚バス停からは5-6分ほどです。

これが旧帝国海軍の門であることを知らなければ、通り過ぎてしまいそうです。

右側の門にこの様に表示されています。

さらに数百メートル進んだところに浜空神社の碑がありました。元は横浜海軍航空隊の守護神として造営された神社です。

その横に鷲の像が飾られた碑がありました。旧帝国海軍中将で終戦の降伏文書調印に連合軍が陸軍の今村大将を指名した際に「海軍は陸軍の指揮下に入ったことはない。」と頑なに主張して海軍側の代表として調印した草鹿任一元中将による漢詩が置かれていました。草鹿中将は米軍の飛び石作戦でラバウルで孤立した軍において自給自足体制を構築し将兵の教育に力を注いだことで高名です。大半が餓死した南方で将兵たちが多く生き残ったのは「玉砕の無意味」を知悉した指導者の理性的な判断だったのです。草鹿中将は最後の海軍大将井上成美大将と海軍兵学校の同期。井上成美大将は草鹿中将の後を継いで海軍兵学校長になっています。

戦後、草鹿中将は何度も南方に赴き部下の将兵の遺骨収集に奔走しました。碑に刻まれていた言葉。この翌年、草鹿元中将は亡くなられています。

題濱空 

大鵬渡海奏奇功 

離島守防意気隆 

衆寡難勝嗟惨々 

至誠不抜憶濱空 

昭和四十六年十月二十一日 

ソロモン・ガブツ島ニ於テ 

草鹿任一

碑の裏側にはちょっと稚拙な文字で「浜空の碑」の一文がありました。1942年(昭和17年)ツラギ島に拠点をおいていた横浜航空隊は米軍の海兵隊上陸作戦によって宮崎司令官以下総員約500名が玉砕したことが記されています。合掌。

その先には鎮魂碑を中心に石碑が並んでいました。

鎮魂碑にお参りしました。

ここにも浜空神社の碑と「桜の由来」の碑。昭和11年(1936年)横浜海軍航空隊が開隊された時に隊員が植えた桜であると書かれていました。富岡総合公園は今も見事な桜の名所なのです。

その横には「浜空神社の由来」がありました。長いですが書き写します。

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。

その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。

昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。

浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。

横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。 

隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。

今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。

時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。 

昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。

引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。

作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。 

中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。 

富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。

この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。

昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立

何とも悲しい碑が並んでいます。平和ボケした自分を羞じて静かに現在の穏やかな日々を感謝してきました。彼等の尊い犠牲の上に我々の平和な生活があるのです。

【駅ぶら03】京浜急行67 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)