津軽海峡の大動脈 青函連絡船を振り返る

2020.06.13

1983年に発売された記念切符

青函トンネルや瀬戸大橋が完成する以前、途切れた鉄路は船舶で結ばれていました。青森と函館に就航していた「青函連絡船」は、今も名曲の中で歌い継がれるほど人々の心に残っています。1988(昭和63)年9月19日に惜しまれながら90年の歴史に幕を閉じた青函連絡船を振り返ります。

青函連絡船の歴史

トレードマークが愛らしい

青函連絡船は1908(明治41)年に、本州と北海道を繋ぐ基幹ルートとして開業しました。イギリスで建造された最新鋭の蒸気タービン船2隻を擁して、旅客・貨物の輸送を担います。1925(大正14)年には、日本初となる大型車載客船4隻による鉄道車両航送を開始。その後の連絡船の礎が形成されました。

戦時中や1954(昭和29)年に発生した洞爺丸台風では、多くの尊い人命と連絡船を失ったものの、日本の復興と共に発展。高度経済成長の時代には、北海道の若者たちが仕事を求めて本州に渡るなど、連絡船は人々の希望も運びました。1972(昭和47)年には、1日最大30往復も就航。当時の最先端技術を駆使した船舶が次々と投入されました。

1970年代後半に入ると本州までの移動は航空機にとって代わられ、鉄道と青函連絡船は冬の時代を迎えます。便数を削減しながら青函トンネル開業まで使命を全うし、1988(昭和63)年9月19日をもってその役割を終えました。

青函連絡船の役割

夜間便も就航(1984年8月撮影)

青函連絡船は、その名の通り北海道と本州の鉄道を連絡する役割を持つ航路で、おもに東京や札幌へ向かう急行や特急に接続していました。寝台列車との接続を重視したダイヤも組まれ、上野~青森を結ぶ寝台特急「ゆうづる」は、最盛期には7往復が設定されていました。また貨物専用船も就航するなど、人と物を運ぶ「津軽海峡の大動脈」として位置付けられていました。

船内紹介

当時の旅客名簿

船舶は列車を積み込める構造となっていますが、積み込みは貨車のみに限られ、乗客はホームから桟橋に移動して乗船する必要があります。待合室で旅客名簿を記入し、乗船前に係員に提出。出航前に2度ドラが鳴り、蛍の光と共に港を離れます。

船内のキオスク(1983年3月撮影)
海を見ながらコーヒーブレイク(1983年3月撮影)

客席はカーペットタイプ及び椅子席の普通席のほか、グリーン席と寝台室がありました。乗船時間は3時間50分。売店・レストラン・シャワールームが完備されています。案内所兼乗車券売り場も設置され、切符の購入や変更が可能です。船舶電話 (当時は携帯電話がない) が設置されており、通常よりも料金が高いにも関わらず、旅の記念に通話する人が後を絶ちませんでした。

最後まで就航した船舶とシンボルマーク

当時でもレアな船長のサインカード

廃止直前まで就航していた船舶は、大雪丸・摩周丸・羊蹄丸・十和田丸・八甲田丸・石狩丸・桧山丸・空知丸などです。船舶ごとにイルカがデザインされたシンボルマークが飾られ、船内のキオスクではバッジやキーホルダーなどのグッズを販売。また一部には「船長のサインカード」など、レアなカードも配布されていました。

後世に功績を伝えるメモリアルシップ

日本の大動脈として津軽海峡で活躍した青函連絡船の功績を後世に残すべく、青森に「八甲田丸」、函館に「摩周丸」がメモリアルシップとして保存されています。内部はミュージアムとなり、青函連絡船に関する資料が展示されています。かつて乗船したことがある人は懐かしさがこみ上げ、連絡船を知らない世代はその役割の重要性に驚かされる事でしょう。

文/写真:吉田匡和


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