大井川鐵道SLイメージ(写真:algedi1226 / PIXTA)

鉄道ファンに「SLの走る鉄道は?」と聞けば、JRの山口線や磐越西線、秩父鉄道などとともに必ず名前が挙がるはずです。静岡県の大井川鐵道(大鐵)。江戸時代、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と民謡(馬子歌)によまれた東海道の難所・大井川に沿って鉄路が北上します。

初めて大鐵を取材したのは2010年。初回は様子がよく分からず、大井川本線途中の福用駅まで電車で移動して、SLの走行シーンを撮影して記事を書いたのですが、その後何回か沿線を訪れ、鉄道とともに沿線の魅力を知り、川根路訪問が毎年の恒例行事になりました。今回は取材ノートを読み返しながら、昨年末の「きかんしゃトーマス冬季特別運転」、そして大鐵からいただいた写真とともに、大鐵のあれこれを紹介しましょう。

昭和とともに生まれた鉄道

大鐵の歴史は大正年間の1918(大正7)年、静岡と千頭を結ぶ駿府鉄道が計画されたことに始まります。社名や起点をめぐってのあれこれがあった後、1925年に会社を設立。2年後の1927年に最初の金谷―横岡間(6.2キロ)が開業します。

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横岡は現在はない駅で、あらためて調べると、途中から分岐して大井川に沿ってレールを伸ばしたそう。昭和初期の1929年に家山まで、1931年に千頭までの39.5キロが全通しました。鉄道建設の目的は、大井川上流の電源開発や木材輸送でした。

戦時中の記録で見つかったのが、国鉄東海道線のバイパス線としての活用。実現はしませんでしたが、東海道線の大井川橋りょうが爆破された際の代替ルートとして大鐵に目が付けられ、東海道線上流部に迂回線を計画。大鐵にD51などの大型SLが、試験入線したことがあったそうです。

電化、客貨分離、観光鉄道、そしてSL運転へ

戦後は1949年までに全線で電化。EL(電気機関車)がけん引する列車運転が始まります。1951年からは電車化され、ELがけん引する貨物列車と客貨分離。経営が順調だったのは高度成長期まで。沿線の過疎化で経営は厳しさを増し、大鐵は車窓から眺める大井川の景観を売りに、観光鉄道へとかじを切ります。車両は中古車でしたが、クロスシート車を積極的に投入しました。

1971年から2002年ごろまで大鐵に在籍した6010系電車。前身は旧北陸鉄道の同系電車で、日本ではじめてのアルミ合金製車体が特徴。大鐵でも北陸鉄道時代の「しらさぎ」のヘッドマークで運行されました(写真:大井川鐵道)

経営努力にもかかわらず、マイカー普及などで経営環境は悪化。そうした中で1970年からの産業文化財継承を目的としたSLの小運転(入替用小型SLの小規模運転です)をきっかけに、1976年から本線上でのSL営業運転がスタートしました。

ちなみに、国鉄(現在はJR西日本)の復活SLの第一号・「SLやまぐち号」の運転開始は1979年で、大鐵は3年先行していました。

JNTのトラストトレイン・C12

ここでSLのこぼれ話。大鐵が〝SL鉄道〟として知られるきっかけをつくった、陰の主役が日本ナショナルトラスト(JNT)です。旧運輸省が所管、当時の国鉄が主導して1968年に設立されたJNT(当初の名称は観光資源保護財団)は、鉄道文化財保護の大鐵「トラストトレイン」として、1987年から現在までSL1両と客車3両を保有します。

JNTが保有するC12 164は、国鉄中央線木曽福島機関区で現役を退いた後、千頭駅での静態保存を経て大井川本線での運行が始まりました。現在は休止中ですが、JNTへの取材では、今後再整備して営業運転が可能かどうか調査する計画もあるとのことです。

トラストトレインの活動では、JNT会員が年1回程度大鐵に集合してSLや客車の清掃奉仕に汗を流します。コロナで2020年と2021年は中止で、再開が待たれるところ。気になる方、参加したい方は、JNTのホームページをチェックしてみてください