広島電鉄に乗って原爆被災から復興をとげたヒロシマの“軌跡”をたどる広島ピースツーリズムへ_悲劇の苦境を乗り越えた広島の過去 現在 未来を体感し考える時間旅行
1945(昭和20)年8月6日、人類史上最初の原子爆弾で、一瞬のうちに破壊されたヒロシマ(広島県広島市)。
この原爆で壊滅したヒロシマが、いくつもの苦難を乗り越え、いまやここまで復興を遂げ、いまもなお平和への祈り・願いを忘れない地として、さらに成長・進化していく姿を、いまこそ体感・共有したい―――。
それが、あの日の記憶と復興した広島の“いま”の姿をたどる、広島ピースツーリズム(HIROSHIMA PEACE TOURISM)。
この広島ピースツーリズムを体感できる“ストーリーがある場所”は、広島電鉄の電車でめぐれる↓↓↓
広島電鉄でいまも動く「被爆電車」
ここ広島には、原爆で被災した「被爆電車」が、いまも力強く、その悲劇と復興の生き証人として現存している。
広島電鉄の生え抜きの車両、被爆電車650形は当時、5両在籍のうち全車被災。全車が復旧し、現在は651号と652号の2両が、おもに朝のラッシュ時に1・3・5・7号線で運行中という。
653号は、当時の塗装に復刻して夏期にイベント電車として貸切運行などに、2006年ダイヤ改正で引退した654号は、広島市交通科学館「ヌマジ交通ミュージアム」(https://www.vehicle.city.hiroshima.jp/)で展示されている。
こうした広島の路面電車は、被爆後、悲しみにくれる広島の街を走り、市民を大いに勇気づけた“ヒロシマ復興のシンボル”といわれている。
まだまだ進化する広島を体感、被爆橋梁 荒神橋へ
広島駅前はいま、広島電鉄ののりばがJR広島駅の2階部分に直結するなどの、整備工事がすすんでいる。
この整備工事が完成すると、広電の電車は真正面の駅前大橋から広島駅へアプローチするルートをとり、現在の猿猴橋町停留場(えんこうばしちょうていりゅうじょう)や荒神橋(被爆橋梁)を通る広電の姿が消える。
ということで、広島電鉄本線軌道と両側に車道と歩道がある併用橋 荒神橋(被爆橋梁)を通る広電の姿も、この目に焼きつけておきたい。
原爆投下目標にされた相生橋へ
広島の“最新復興シンボル”、おりづるタワーからみえる相生橋も被爆橋梁で、アメリカ軍の原爆投下目標にされた。
すさまじい衝撃波で大きく損壊した相生橋。それでもその復旧は被爆後すぐにはじめられ、その年の9月7日には路面電車が通ったという。
平和記念公園北側の橋詰めにはいま、被爆の痕跡を残す親柱が保存されている。
……相生橋への最寄り電停は、本川町または原爆ドーム前。
軍用鉄道 宇品駅の脇に立つ広島陸軍糧秣支廠倉庫の遺構へ
陸軍糧秣支廠は、戦時下で必要な兵隊の食糧や軍馬の飼料を調達、補給するために設置された倉庫。
1894(明治27)年に日清戦争が始まると、山陽鉄道の当時西端だった広島駅と、ここ宇品を結ぶ軍用鉄道を二週間あまりの突貫工事で完成させ、宇品港は第二次世界大戦が終結するまで陸軍の海外への輸送基地と位置づけられた。
この倉庫は、1910(明治43)年頃、軍需物資を保管するため、宇品駅のプラットフォームに沿ってレンガ造りで建てられた。いまは、被災からかろうじて逃れられたそのレンガ壁面が、モニュメントとして保存されている。
……広島陸軍糧秣支廠倉庫(レンガ壁面モニュメント)への最寄り電停は、海岸通。
被爆後もその骨格は現役、福屋百貨店 八丁堀本店
当時の、福屋百貨店 八丁堀本店は、鉄骨鉄筋コンクリート造地下2階、地上8階建ての百貨店。
当時まだ珍しい冷暖房設備を備えた近代的な建物で、多くの人でにぎわったという。
1945年(昭和20)年8月6日、アメリカ軍による原爆投下で、強烈な爆風と熱線により内部は完全に焼失。
外郭はかろうじて残り、臨時救護所として使われた経緯をもつ建造物。そこから増改築を繰り返し、現在も百貨店として現役で広島市民に親しまれている。
いまこそ広島ピースツーリズムの時間旅行へ
―――こうしてあらためて広島ピースツーリズムの時間を過ごすと、忘れてはいけない戦争の残虐さ、いまを人を敬いみんなで限られた時間を大事に生きる大切さを痛いほど痛感し、前進するチカラをくれる。
ヒロシマから世界へ。ともに「平和とはなにか」を考え、共感し、平和への思いを共有する広島へ、いまこそ旅するとき。
あらためて平和記念公園でヒロシマピースボランティアの話を聞き、あの日の記憶をたどるルートを巡りながら、ゆっくりじっくり広島の過去・現在・未来を体感してみて↓↓↓
https://peace-tourism.com/
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