※2025年6月撮影

トップ画像は、秋葉原駅近くのラジオ会館。

筆者が高校生~大学生の時代、ブームだったオーディオ機器を探しに通っていた旧ラジオ会館本館は、2011年に閉館。今は、2014年に完成した新しいビルになっています。

昭和40年代中頃から、秋葉原電気街には何度も通いました。しかし、オーディオブームは、静かに終焉を迎えます。その後、パソコンの周辺機器を買いに行った時代もありました。

20年ほど前から、インター・ネットであらゆる買物が簡単にできるようになり、リアルな店舗に行く機会が激減。筆者も秋葉原に来たのは、20年ぶりでした。

秋葉原電気街は、この60年間で国内で比較できない程、最も激しく変貌した街だと思います。

昭和45年(1970年)、FMラジオのステレオ放送が始まりました。カセット・デッキで音楽を録音する事が大ブームになりました。

当時、放送内容を正確に伝える週間・旬刊・月刊のFM専門誌がいくつも店頭に並んでいました。

情報の参照手段は限られていました。スマホもインター・ネットも無かったのです。

1980年代にラジカセ市場は、年間500万台を越えました。

筆者は、自家用車のカーステレオ用に多くのカセット・テープに好きな音楽を選択し録音していました。しかし、もう1本も残っていません。

一方、70年代中頃、マイコンのブームも始まります。ラジオ会館の中にパソコン関係の店舗が急に増えました。

1980年代にはCD(コンパクトディスク)が登場。秋葉原には、高価なデジタル・オーディオ機器が揃っていました。我々学生は、アルバイトで貯めた虎の子を持って秋葉原に通ったのです。

しかし、1990年代に機器のデジタル化・小型化が進み、高価なオーディオ機器のブームは、急速に終焉を迎えます。

むしろ2000年代に、オーディオ・ビジュアルが流行。薄型テレビと5.1サラウンド、いわゆるホームシアターの時代の始まりです。その頃、筆者は、メーカーで薄型ディスプレイの商品企画をしていました。

他方で、1980年代には、家電量販店がメーカーと直取引で大量の製品を安く販売する「新しい家電流通」が一般化します。「安くテレビを買うために秋葉原電気街に行く」という消費行動が失われていったのです。

秋葉原は、どんどん姿を変えてゆきます。

ここからは「秋葉原電気街振興会」のサイトを参照して、秋葉原電気街の歴史をかいつまんで紹介します。

戦後、焼け野原だった秋葉原に電気店が続々誕生しました。当初は、総合問屋の廣瀬商会に地方から仕入れに小売業、卸売業が多く訪れ「秋葉原は安い」という評判が広がっていったのです。

近隣の電機工業専門学校(現在の東京電機大学)の学生が、アルバイトでラジオを組み立てたところラジオ放送の人気もあって秋葉原では爆発的に売れました。

占領軍総司令部(GHQ)が昭和24年(1949年)露店撤廃令を施行。秋葉原に多くあった露店は、秋葉原駅ガード下に移動、ラジオストア、ラジオセンター、隣には2階建ての秋葉原電波会館。

高架線横に東京ラジオデパートも開店。現在の秋葉原電気街の原形ができました。

下の写真、左側の白いビルが「秋葉原電波会館」右のJR総武線高架下の部分が「ラジオセンター」です。かつては右側の黒い広告ボードに「ラジオセンター」と表示されていました。お店の方に訊いたら「今は、看板も何も無いね」とのことでした。

※2025年6月撮影

アーケードの一部に「ラジオセンター」の表記が残っていました。

※2025年6月撮影

反対側、右のビルが「秋葉原電波会館」の裏側。左が「ラジオセンター」。

※2025年6月撮影

「秋葉原電波会館」の表側。

※2025年6月撮影

中央通りを渡ります。頭上はJR総武線のガード。右に「東京ラジオデパート」のネオンサインが見えます。

※2025年6月撮影

「東京ラジオデパート」正面。通りが狭いのでこれ以上カメラは下がれません。

※2025年6月撮影

残念ながら「秋葉原ラジオストアー」は 2013年(平成25年)11月、64年の歴史に幕を下ろしました。

秋葉原電気街の歴史に戻ります。

昭和26年(1951年)には民放ラジオが開局。メーカー製のラジオが爆発的に売れたました。

秋葉原電気街に「無線=ラジオ」の名を残す店舗が多いのは、この時代の歴史と繋がっているのです。

昭和28年(1953年)にはテレビ放送が始まり「家電元年」と言われました。

昭和31年(1956年)の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれ、新しい成長の時代が始まります。

国民総生産は、昭和30年からの10年間で2.4倍に増加。年率9%を越える驚異的な成長を示したのです。

昭和30年代前半に「三種の神器」と言われた「白黒テレビ」「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」が国民の憧れの的になります。

昭和40年(1965年)に、白黒テレビの普及率は95.0%、電気洗濯機が78.1%、電気冷蔵庫は68.7%と急速に普及しました。

正に昭和30年代を通じて秋葉原電気街は、急速に発展したのです。

そして昭和40年代、日本は高度成長期のピークを迎えます。

昭和41年(1966年)から昭和45年(1970年)の経済・実質成長率は、年平均11.6%に達しました。昭和43年(1968年)には、日本のGNPが資本主義国で2位となり、国民は熱狂します。

筆者は、昭和31年(1956年)生まれです。昭和45年(1970年)の大阪万博に、行きました。昭和46年(1971年)のニクソンショック(ドルの金兌換停止発表)、昭和48年(1973年)のオイルショックなどリアルなニュースとして強く印象に残っています。

一方、昭和40年代は、戦後のベビーブームで誕生した「団塊の世代」が若者として台頭し、文化を大きく変えてゆきました。

ジーンズの流行、ウーマンリブ運動、女性誌“an・an”“non・no”による新しいライフスタイルの価値観が人気となります。

これら雑誌の読者「アンノン族(若い女性)」の旅行ブームを受けて国鉄(現・JR)は「ディスカバージャパン」という大キャンペーンを実施しました。

また1970年代初頭からラジオの深夜放送がブームになります。

オールナイトニッポン、セイヤング、パックインミュージックなど。筆者は中学生でした。親に隠れて小さなラジオで深夜放送を聴いていました。あな懐かし。

秋葉原電気街では、カラーテレビという家電業界の大黒柱が登場。

昭和40年代の「三種の神器」は「3C」。カラーテレビ、クーラー、カー(自動車)の頭文字“C”が3つです。

今は、エアコン、誰もクーラーとは言いませんが、当時は「冷やすダケ」の機械だったのです。

家電製品も進化します。電気洗濯機は、脱水付きから全自動に、電気冷蔵庫には冷凍庫が付きました。そして家電は、メーカーの努力(大量生産)によって「高嶺(高値)の花」ではなくなってゆきます。

一方、ビデオが登場、昭和50年(1975年)には1%ほどだった普及率が、昭和59年(1984年)には20%近くに上昇、生産台数もカラーテレビを上回りました。

昭和50年代には、オーディオブーム。システムコンポが爆発的に売れました。筆者も、この時代にオーディオにハマっています。

昭和54年(1979年)には、音楽の消費スタイルを根底から変えたSONYの“WALKMAN”が登場。

またニューファミリー(団塊世代)の自由な嗜好によって白ばかりだった「白モノ家電」にカラー製品が登場するなど選択肢が増え、家電店のフロアも拡大を続けました。

秋葉原電気街も大きなビルが建ち並ぶようになりました。

日本の家電がその技術力で「Made in Japan = 高品質」と世界中から認められ、外国人旅行者が秋葉原電気街に大勢訪れる様になります。「AKIHABARA」は、世界的に有名なブランドになっていったのです。

家電店は、こぞって「免税店」「免税フロア」の看板をあげました。

昭和54年(1979年)に「秋葉原電気街振興会」が設立されます。店舗サービス改善、街の美化、安全対策、バッタ屋など不良店舗の差別化など電気街全体の対策を実施。そして、翌、昭和55年(1980年)から「秋葉原電気街まつり」が開催されています。

秋葉原電気街は、昭和60年代初頭には、団塊ジュニア世代をターゲットにしたCD付きミニコンポなどが好調に売れ、家庭内電化製品の高級化、大型化で活況を呈しました。

しかし昭和60年代に、家電量販店が急増、新宿・渋谷・池袋といった若者のファッション街に出店し集客を延ばします。また急速なモータリゼーションの結果、郊外型の家電量販店で安く家電を買うスタイルが一般化します。

家電業界もAVブーム、高級家電ブームの反動で平成元年頃から「家電不況」に突入。秋葉原の集客力低下も、老舗店の閉店などでマスメディアに取り上げられる様になりました。

平成6年、秋葉原電気街の売上でパソコン関係が家電を上回ります。平成7年(1995年)の「Windows95」発売によるパソコンブームで、秋葉原は「マルチメディア最先端の街」という新しい顔を持つ様になります。

この後、神田中央市場跡の再開発、つくばエクスプレスの開業など秋葉原が大きく変貌してゆくのです。

筆者的には「アキバの老舗 かんだ(「だ」は むずかしい字でした)食堂」が2018年に閉店してしまった事が残念でした。務めていたメーカーの支店が近くにあったので、秋葉原に来たらランチを食べに行っていたのです。今となっては、あの大盛りは食べきれないかもしれませんが・・・。

※2003年9月撮影 オリジナル写真が4:3です

残念なことに、昭和26年(1951年)開業のアキハバラデパートが、平成18年(2006年)に55年の歴史を閉じました。

今回、筆者が個人的に一番ショックを受けたのは、アキハバラデパートが無くなっていたことかもしれません。

高校時代から、当たり前に有ると思っていたモノが、消えてしまったのは、何とも寂しい限りです。

今回、ほぼ20年ぶりに秋葉原電気街を歩いて、不思議なことに、新しい店舗では無く、無くなってしまった店舗ばかりに、気がついてしまうのです。

最後に「秋葉原電気街振興会」のサイトから引用します。

「ラジオ部品を取り扱う電気街として発展してきた秋葉原が今や、マンガ・アニメ・フィギュアなどのポップカルチャーの情報発信地として世界の注目を集め、海外からの旅行者を惹きつけてやまない理由も、そうした底知れぬ変化のパワーが為すものといえる。秋葉原が扱ってきた、その時代のトレンドは電気製品であれ、ゲームソフトであれ、フィギュアであれ、世界に誇る高い技術力に裏打ちされたものであり、それこそが秋葉原が世界とつながる原動力となっている。

〈中略〉

1990年代後半から、不振の電化製品販売に取って代わるように、秋葉原の街にはアニメやゲームマニア対象のソフトウェアを扱う店舗が増え始めた。もともとPC部品を買い求めて専門店に足繁く通っていた「オタク」と呼ばれるパソコン愛好家が、ゲーム、アニメ、フィギュアに興味の対象を広げていったことから、そうした需要に応える形で店の様相が変化、メイド喫茶なども数多く登場した。2004年、インターネットの電子掲示板「2ちゃんねる」への書き込みから生まれた「電車男」がブームとなったことなどを契機に、オタク文化が一部のマニアのものから次第に一般化・大衆化し、その中で秋葉原もまた、徐々にコンテンツ産業の中心地として注目を集めていく。「アキバ系」という言葉が登場するのもこの時期であり、以降、秋葉原はポップカルチャーの発信地として世界的に知られるようになっていく。

〈中略〉

これまで秋葉原は、変化すること自体を街の活力源としてきた。秋葉原が”Akiba(アキバ)”となって世界的な存在になっても、混沌をエネルギーとしながら変わり続けていくことは間違いない。その変容こそがこの街の魅力であり、秋葉原たる所以なのである。」

長くなってしまいましたが、秋葉原の戦後からの80年間の変化を紹介するには、まだまだ足りません。

しかし、流石に、駅の周りを散歩したいので、この辺りまでにします。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などはつくばエクスプレス(首都圏新都市鉄道株式会社)の許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

首都圏新都市鉄道株式会社 会社要覧2024

るるぶ情報板関東31 つくばエクスプレス JTBパブリシング 2025年5月1日

つくばエクスプレス沿線アルバム 生田誠 山田亮 アルファベータブックス 2023年8月5日

つくばスタイル No.12 枻出版 2011年4月10日

つくばエクスプレス 最強のまちづくり 塚本一也 創英社 2014年10月23日 他