※2025年10月撮影

トップ画像は、撮影と掲載の許可をいただきに東福寺の御住職にコラムの説明にうかがった際にいただいた「東福寺の志おり」。左のぶ厚い本は、東福寺のご住職から「庚申塔の事なら流山市立博物館に訊くと良いですよ」という助言をいただいて市立博物館を訪ね学芸員の方から庚申塔の事など訊いている中で紹介いただいた一冊。流山市立博物館調査研究報告書24『流山庚申塔探訪』2007年3月流山市教育委員会発行。何と市内の庚申塔343基の写真、調査記録です。頒布価格は500円と極めてリーズナブルでした。

東福寺、仁王門をくぐって、正面に本堂があります。

※2025年10月撮影

住職にいただいた『東福寺の志おり』から東福寺の歴史です。

「平安の昔、弘仁5年(814年)2月、当地に弘法大師が訪れました。当時、周囲は海で神竜の守護する霊山がありました。山上の弁財天の池に棲む竜が老爺の姿で弘法大師の前に現れ「薬師如来常在の地である当地に仏像を刻み寺を建てて欲しい」と請願しました。そこで弘法大師は仏像を作ろうとしましたが、材料の御衣木(みそぎ)がありません。しかし周囲の海が突然輝き、海竜が竜宮の霊仏を大師に献げました。大師はこれで薬師如来を作り当寺の本尊とされました。その時海竜が背鰭の先を少し残していったので、この地を鰭ヶ崎と言ったといわれます。

その後、朱雀天皇の頃、平将門の乱が起こり討伐の令を受けた藤原秀郷が天慶3年(940年)当寺に詣で住職の永海により七仏薬師の法を修し、将門を討ち滅ぼした。この功により勅命で当寺の金堂が修理され荘田五百石が寄せられた。藤原秀郷は俵藤太(たわらとうた)とも呼ばれ、瀬田附近で琵琶湖の竜女の願いにより、三上山の百足(ムカデ)を退治した武将として知られている。当寺には、この藤原秀郷と竜女の出会いを描いた絵馬が残されている。〈後略〉」

※この絵馬は「東福寺の志おり」表紙に図像があります

西側に鐘楼。

※2025年10月撮影

本堂は江戸時代の建築です。

※2025年10月撮影

ご本尊様にお詣りします。

※2025年10月撮影

2007年に本堂西側に移され新しくなった千仏堂。

※2025年10月撮影

東側に江戸時代初期の中門があります。有名な彫刻は分かりませんでした。境内で筆者が一番良いと思った建築でした。

※2025年10月撮影

中門の外側から。

※2025年10月撮影

蜜厳堂みつごんどう(興教大師堂)真言宗中興の祖興教大師覚鑁(かくばん)上人をお祀りするお堂。

※2025年10月撮

長くなるので、次回に続けます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などはつくばエクスプレス(首都圏新都市鉄道株式会社)の許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

首都圏新都市鉄道株式会社 会社要覧2024

るるぶ情報板関東31 つくばエクスプレス JTBパブリシング 2025年5月1日

つくばエクスプレス沿線アルバム 生田誠 山田亮 アルファベータブックス 2023年8月5日

つくばスタイル No.12 枻出版 2011年4月10日

つくばエクスプレス 最強のまちづくり 塚本一也 創英社 2014年10月23日 他

流山市の庚申塔については 流山市立博物館調査研究報告書『流山庚申塔探訪』流山市教育委員会発行を参照しています