鵠沼海岸駅を出ました。前面展望の撮影位置はこちら。というのは、流石に小田急線先頭車両もガラガラというワケでは無く、最前部の運転室後に立っているお客さんがいるのです。右側はお客さんが先に立ってスマホをやっていたので真ん中から撮ります。

ユニークな架線柱が続いています。沿線は住宅が並んでいます。

鵠沼海岸駅から1.3kmで本鵠沼駅。この駅も相対式ホーム2面2線に跨線橋。このタイプにも橋上駅舎のものとどちらかのホームに駅出入口と駅舎があるタイプ、両側のホームに改札口があって片側に駅舎があるタイプなどのバリエーションがあります。本鵠沼駅は最後のタイプですね。

ADVERTISEMENT

先頭車両で降りて少し片瀬江ノ島駅側に駅名標がありました。乗ってきた各駅停車相模大野行が出て行きます。

上り2番ホームから駅全体はこんな感じです。ホームの有効長は6両編成分。跨線橋の向こう、片瀬江ノ島駅寄りに改札口があります。コレを毎回往復するのが意外に歩きます。(笑)

先に跨線橋に上ります。サッシ窓が開く駅と開かない駅がありました。本鵠沼駅は開きました。片瀬江ノ島駅方面です。流石に江ノ島は見えませんね。上り列車が入ってきました。

通過列車だったので相模大野駅方面を撮ったらそのまま写りました。

ホームに下りて片瀬江ノ島駅側に歩いてくると改札口がありました。

下りホームの駅名標。1929年(昭和4年)開業。既に書いた様に戦前は「直通」の停車駅でした。戦前の1943年(昭和18年)鉄材不足で線路を供出、江ノ島線は藤沢駅~片瀬江ノ島駅間が単線になりました。戦後の1946年(昭和21年)複線に戻されます。1998年(平成10年)10両編成の急行は通過となりました。2004年(平成16年)東口改札が完成。江ノ電に既に「鵠沼駅」があったので「本鵠沼」という駅名になりました。元々、本村という集落に隣接していたということもあった様です。江ノ島線の駅の中では乗降客数が最も少ない13,892人/日。(神奈川県統計)

鵠沼は、明治時代の鵠沼村から始まっています。鵠(くぐい)とは白鳥の古名、かつてはこの辺りに多くの沼があって白鳥が飛来したからだと言われています。明治中期に旧徳川幕府の相州砲術調練場跡地25万坪を子爵大給近道が入手して関係者と道路を作りクロマツを植えて別荘地として売り出しました。その後大正時代には白樺派などがこの地を揺籃(ようらん=ゆりかご)として誕生するなど文化的な発信地となりました。

一方、関東大震災で被災した政治家、官僚、企業家、高級将校などが都内から鵠沼に転居して一転高級住宅地になりました。1929年(昭和4年)小田急江ノ島線が開通したことで旧別荘地と農村部の中間地帯が宅地開発され建売住宅が販売されました。この頃の建売住宅は100坪の敷地が当たり前で、その後の高級住宅地の発展に繋がりました。

太平洋戦争下では疎開先として人口が激増。1960年代の高度成長期には宅地の乱開発が進みます。また旧別荘地も相続などの問題から細分化が進み、かつての高級住宅地のシンボルだった松が急速に消えてゆきました。そして現在の東京通勤圏のベッドタウンとなったのです。

片瀬江ノ島駅側から相模大野駅方面を見ています。左の柵の横が西の改札口です。

西口駅舎の正面。

本鵠沼一号踏切。2007年(平成19年)拡幅工事が行われました。東口が見えています。トップ画像はこの後、下り列車が通過しているシーンです。

踏切から相模大野駅方面を見ています。

本鵠沼駅周辺をプラプラしてみました。個人的な感想ですが、高級住宅地と言った特段の印象は受けませんでした。明らかに新興住宅地とは違う空気感を感じましたが、まぁ、ちょっと上品な私鉄駅という雰囲気です。筆者が育った井の頭線久我山駅とあまり変わらない感じかな。むしろ「湘南という幻想のブランド」とともに成立し、維持されている土地柄という辺りでしょうか。

いずれにしてもバブルというイカレた時代までに国民の中流化がいきわたって建売住宅が並ぶ「のっぺりした」住宅街が過去の高級住宅地を駆逐してきたのです。

例外的に世田谷の成城(6丁目まで)や大田区の田園調布の一部、山王の一部などに高級住宅が残っています。ただ品川の御殿山はほとんどタダの住宅地になってしまいました。

関西で言えば芦屋の山側、六麓荘が圧倒的にスゴイです。ここは道路の入口に表札がかかってますから。家や門も塀も見えません。(笑)

次は藤沢駅です。【駅ぶら01】小田急江ノ島線05 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)