※2023年8月撮影

トップ画像は「高幡山明王院金剛寺」の「奥殿」、この中に「丈六不動明王像」があります。拝観しましたが撮影は禁じられています。

「高幡不動尊金剛寺」様から写真をお借りしました。

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※高幡不動尊金剛寺様御提供

境内の日野市教育委員会による「高幡山金剛寺の国指定重要文化財」の内容を写します。「奥殿」修復前に書かれたので「不動明王像・二童子像」が「不動堂の本尊」となっています。

「木造不動明王および二童子像

金剛寺不動堂の本尊で平安時代後期の丈六不動三尊像である。建武2年(1335)の大風により、不動堂が倒壊した際に大きな被害を受けたが、時の住僧儀海上人及び大檀那・平助綱等の尽力によって康永元年(1342)に修復された。不動明王座像は像高285.8cm、本体は檜材、脚部は榧(かや)材が用いられている。本尊の光背は康永修理時のもので檜材・総高419.8cmである。

半丈六の両童子像はともに一木割矧造(わりはぎづくり)で矜羯羅(こんがら)童子は像高193.2cmで朴(ほお)材、一部榧材が用いられている。制多迦(せいたか)童子は像高230.4cmで橡(とち)材、一部桂材及び榎(えのき)材が使用されている。三尊の用材が異なっていることから三尊の造立に地元の木材が使用されたと考えられており、在地の仏師の作ではないかとの見解もある。  平成6年(1994年)6月28日指定」

「奥殿」の南側、日野市指定文化財「文永の板碑」があります。文永8年は、1271年。

※2023年8月撮影

「上杉憲顕の墳」お寺のサイトには「茶湯石。上杉憲顕は氏憲の子、享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と立川河原に会戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した。自然石はその墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、百か日忌払い供養の伝承がある。(鎌倉大草紙)」と書かれています。

※2023年8月撮影

総本堂「大日堂」への石段を上がります。

※2023年8月撮影

素晴らしい彫刻の施された山門。

※2023年8月撮影

山門の北側に東京都指定有形文化財「金剛寺旧五部権現社殿」があります。

※2023年8月撮影

正面。

※2023年8月撮影

右に見える「東京都教育委員会の案内板」には以下の様に書かれていました。

「金剛寺の境内鎮守として創立されたもので、寺伝によると、源頼義が奥州反乱鎮圧に際し、ここに八幡社を勧請し、のちに稲荷、丹生、高野、清龍権現を合祀して五部権現と称するようになったと伝えられます。この五部権現社は現存する棟札により、暦応3年(1340)に創建され、寛文11年(1671)に再建された江戸時代前記の社殿として類例の少ない貴重な文化財です。建物の構造は、一間社流造、銅板葺、向拝付きで、大きさは桁行1.52m、梁間1.30mあります。木部全体に朱の漆が塗られ、彫り物の刻線には墨、さらには向拝蟇股には群青などの鮮やかな彩色が施されています。社殿に安置されていた五基の神牌には、暦応3年(1340)3月28日造の銘があり、本地仏の垂迹神の名を刻し、国の重要美術品に認定されています。なお五部権現社殿は奥殿建設工事に伴い、平成8年大日堂前に移築されました。             平成23年3月」

この角度からの方が朱塗りの社殿がよく分かります。

※2023年8月撮影

「大日堂」の前に「金剛桜」があります。

※2023年8月撮影

では「大日堂」に入って「鳴り龍」を拝観します。桃山時代様式という大玄関。華やかです。

※2023年8月撮影

玄関前に「水琴窟」がありました。

※2023年8月撮影

筆者は自宅に「水琴窟」を作りたいと考えているほど、この密かな水音の響きが好きです。流れる汗を拭うことも忘れて素晴らしい水の反響音に聞き入ってしまいました。ホントにいいなぁ・・・。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)