「ゲートウェイシティを社会課題解決の実験場に」(喜勢JR東日本副社長)

らせん状の外観が特徴的な高輪ゲートウェイシティの文化創造棟。外装デザインは新国立競技場などで知られる建築家の隈研吾さんが手がけます(資料:鉄道開業150年記念セミナーの講演資料から(喜勢副社長))

JR東日本の喜勢副社長は、品川開発の責任者。同社が次の10年で目指すのは、「リアルな鉄道ネットワークと、交流拠点になる駅を活かし、外部の技術・知見を組み合わせてサービスを創造する企業」です。

現代社会には、少子高齢化や人口減少への対応、ICT(情報通信技術)やAI(人工知能)をはじめとする新規技術の導入など、解決を迫られる難題が溢れています。それらの解決策を、ゲートウェイシティから発信するのがJR東日本の企業姿勢です。喜勢副社長は、「高輪ゲートウェイシティを社会課題解決の実験場に」と話しました。

JR東日本が高輪ゲートウェイシティで目指す社会課題解決の一例がこれ。同社は2021年11~12月、高齢者の外出手段確保、駅からの2次交通手段として小型カート「グリーンスローモビリティ(グリスロ)」の実証運行を実施しました(筆者撮影)

お雇い外国人は明治時代の〝助っ人〟

鉄道150年の歩みを検証した有識者お2人の基調講演にも、ワンポイントずつ触れましょう。

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明治初期の鉄道黎明期・日本の鉄道整備に貢献したのがお雇い外国人。森地教授によると、1868年から1890年までに来日した外国人土木・建築技術者167人のうち約3分の1の59人が鉄道分野の技術者だそう。鉄道は測量(31人)、通信・鉱山(各14人)などを抜いてトップで、明治政府がインフラ整備で、鉄道をいかに重視していたかがうかがえます。

お雇い外国人で政府が苦労したのは、現代の貨幣価値に直せば月額1500万円という高額な報酬。日本滞在は最長でも3年間程度に限られました。私が思うに、お雇い外国人は現代でいえば、プロ野球やサッカーJリーグの外国人助っ人選手だったのかも。

私鉄や地下鉄のネットワーク整備が東京都心の街づくりを分散化

1960年代初頭の新宿駅西口。まだ小田急百貨店本館はなく、東口が見通せます。1967年に全面開業した百貨店本館は2022年10月2日で営業終了。小田急電鉄と東京メトロは跡地に48階建ての複合高層ビルを建設します(画像:鉄道開業150年記念セミナーの講演資料から(岸井所長))

もう一人の基調講演者の岸井所長は、交通工学や都市計画が専門。戦前の東京は、東京駅を中心とする大丸有(大手町・丸の内・有楽町)の一極集中でしたが戦後、私鉄や地下鉄のネットワーク整備に連動して、新宿、渋谷、池袋へと東京都心は広がりをみせました。

渋谷は1965年のNHK移転(転入)、新宿は同年の淀橋浄水場移転、池袋は一足遅れた1978年のサンシャイン60竣工が、地域再開発にインパクトを与えました。

東京で、今後の発展が期待されるのが品川エリア。JR東海のリニア中央新幹線、JR東日本の高輪ゲートウェイシティ、そして先日、正式決定した東京メトロ南北線の品川延伸と、ここでも鉄道が地域開発の推進機能を受け持ちます。

「国鉄三江線のレールに、見知らぬ地への思いはせる」(斉藤国交相)

最後に、斉藤国交相の来賓あいさつを短くご紹介します。趣味の欄に「鉄道」と書くほどの斉藤大臣は、島根県邑南町の出身。2018年までJR三江線が通っていました。

「子どものころ、駅で線路を見て『この線路が遠くにつながっている』と思いをはせた」と思い出を披露しました。「遠くにつながる線路」――それが150年前も今も変わらない鉄道の魅力なのかもしれません。

JR東日本と運輸総研の鉄道開業150年記念セミナーの紹介は以上。鉄道の歩みでは書き漏らしたこぼれ話も多数あるので、機会をいただき続編の形でご紹介できればと思います。

記事:上里夏生