※2023年5月撮影

トップ画像は、京王線幡ヶ谷駅から5~600mほど歩いた浄土宗清岸寺の本堂。渋谷区教育委員会の説明板には、

「清岸寺は、もとは現在の東京乗馬倶楽部(代々木神園町4番)付近にありましたが、代々木練兵場建設によって、廃仏毀釈で廃寺となった法界寺跡に移されました。

清岸寺本堂は、明治三十二年(1899)頃に千葉県岩井町市部(いちべ 現・南房総市)の今村正次が建てたもので、通称岩井御殿と呼ばれていました。昭和二十年(1945)五月の空襲により本堂を失った清岸寺は、昭和二十四年にこの岩井御殿を譲り受け、同26年に移築してきたのです。

〈中略〉

もともとの建物の部材の痕跡から住宅を仏堂に移築・改造したときに、仏間部分を立派にするために、柱がスギから太いケヤキに交換されたことがわかります。

〈中略〉

清岸寺本堂は、住宅を仏堂に転用した事例として、じゃつ明治期における高級な住宅の姿を知ることの出来る事例として貴重な建造物といえます。」

本堂の西側に聖観音と魚籃観音が並んでいます。

住職の奥様のお話では「今年は、京王観音霊場が創設されて80年、幡ヶ谷聖観音が建立されて50年という記念の年にあたる」とのことでした。

※2023年5月撮影

魚籃観音の脇に小さな板碑があります。渋谷区の指定有形文化財で「応永四年(1397)八月八日の年紀」があります。

※2023年5月撮影

お寺のサイトに由れば

「室町時代初期の造立で、蓮台の上の中央の梵字は阿弥陀如来をあらわす種子(しゅじ)です。
秩父石に刻まれた板碑は一種の卒塔婆で貴重なものです。高さ43センチメートル。」

奥に瘡守稲荷(かさもりいなり)が祀られています。

※2023年5月撮影

清岸寺のサイトによれば、

「その祭祠の由縁や建立の年代は不明であるが、古来より腫物・瘡に効き目があり平癒祈願(へいゆきがん)すれば願いが叶う稲荷神として近隣の信仰をあつめていた。戦災にあって仮殿のままであったところ昭和41年に現在の社殿に復興落成した。」

※2023年5月撮影

右端にとても珍しい形の浮彫りの片膝をたてた猿型半跏像・庚申塔があります。

※2023年5月撮影

そして「酒呑地蔵」、毎晩お酒を吞む筆者には縁の深いお地蔵様?

もとはマップでこの「酒呑地蔵」を見つけて清岸寺を目指してきたのです。

※2023年5月撮影

こちらも渋谷区教育委員会の案内板に内容です。

「酒呑地蔵

この地蔵は、江戸時代の宝永五年(1708)に本村に建てられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。

むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者は、故あって家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど、一生懸命に働いたといわれています。

瀬平の勤勉さに感心した村人は、三十一才になった正月に彼を招いてご馳走をしたところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死してしまいました。瀬平は村人の夢まくらに現れて、この村からお酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵としてお祀りして来ました。

平成二十三年一月十日に本町五丁目の地蔵橋のたもとから清岸寺に遷座し、二月十九日に開眼供養が行われました。新たなお堂も建立され、安住の地となりました。」

あれあれ、真面目な青年が馴れないお酒で川に落ちた話でした。

筆者も酔っぱらって自転車ごと水路に落ちたことがあります。20代の頃の話で、今でも爺さんは無事に毎晩吞んでいます。peace(笑)

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)