門司エリア全景。初代と2代目の門司駅には約100メートルの距離があります。九州鉄道は1891年、本社をそれまでの博多から門司に移転しました(画像:北九州市)

新幹線や観光列車で話題をまき続ける九州の鉄道。その原点は北九州市にあります。港湾都市・門司には国鉄門司鉄道管理局、門司機関区(旧称は大里機関区)などがあって、半世紀前の話になりますが、ベテラン鉄道ファンにはSLを追って〝門鉄詣で〟に明け暮れた方がいらっしゃるかも。

そんな鉄道の街・門司で、このところ議論を呼んでいるのが鉄道遺構の保存問題。2023年の旧門司駅舎跡などの発掘調査で、明治期の遺構が見付かり、鉄道史や建築史の専門家が「現地で保存・公開すべき」と提起します。本コラムは北九州市の発掘調査結果を中心に、遺構の保存方法などを考えます。

九州鉄道がネットワーク形成

最初に門司と九州の鉄道略史。九州の鉄道は私鉄が主なネットワークを形成しました。明治初期、福岡県令(現在の県知事)の岸良俊介は、政府に門司~熊本間の鉄道建設を上申し、最終的には1888年に九州鉄道が設立されました。

九州鉄道は門司~熊本間を、第1(門司~遠賀川)、第2(遠賀川~博多)、第3(博多~久留米)、第4(久留米~熊本)の4工区に分けて着工。本来は本州につながる門司からの開業が望ましかったのですが、資金不足や用地買収が難航。会社設立翌年の1889年、第3工区の博多~千年川(仮停車場。千歳川の表記もあります)間を先行開業させた後、1891年に門司~黒崎間が開業。初代門司駅もこの時に誕生しました。

明治期の初代門司駅構内。ホームは1面2線、転車台や機関庫が隣接するシンプルな構造です(画像:北九州市)

大正年間の1914年には、2代目門司駅(現駅舎)に移転。1942年の関門トンネル開通で駅名を現在の門司駅に譲り、門司港駅に改称されました。門司駅の工事詳細は不明部分も多いものの、紛れもない九州鉄道の原点。駅構内に0マイルポストがあります。

鉄道駅舎初めての重文

ここから話は現代に。北九州市は門司港地区を再開発して初代門司駅跡地に複合公共施設を建設。門司区役所、門司図書館、門司市民会館などを集約する方針を固め、2023年9~12月に北九州市芸術文化振興財団の手で発掘調査を実施しました。発掘対象は開発総面積の3分の1に当たる約900平方メートルで、同年11月に現地説明会も開かれました。

門司港駅は1988年、鉄道駅舎で初めて国の重要文化財に指定されました(2003年にはJR東京駅も丸ノ内本屋も指定)。振興財団によると、発掘調査では門司港築港前の旧海岸線や埋め立てが分かる地層、鉄道関係では機関庫や倉庫、初代駅舎の外郭の石垣などを発見。2代目駅舎関係でも、築堤石垣などが見付かりました。

明治期の駅構内図によると、初代駅舎は頭端式(行き止まり)ホームに1面2線。隣接して機関庫、検修施設、転車台などがありました。駅・機関庫のうち3分の1程度は、海岸線の埋め立て地に建設されたようです。

発掘の様子。画像を見るとかなりの規模で作業が進められた様子が分かります。現地保存もかなりの工夫が必要でしょう(写真:北九州市)
発掘作業で見付かった初代門司駅の遺構。整地にはSLから出る石炭ガラも使われていたようです(写真:北九州市)

和洋折ちゅうの工法を採用

門司駅が建設された明治中期は、海外の土木技術が日本に輸入された時期に当たります。専門家の見立てでは、埋め立て部分にはコンクリートとレンガの西洋工法に加え、胴木と呼ばれる木材や砂利を使用する日本の伝統工法が併用されます。こうした工法は、日本の土木技術の進歩が分かる点で特に貴重ということです。

振興財団によると、明治期の門司駅が分かる資料は、市街図、構内図、絵ハガキがあるものの、全部で20点足らず。現地調査で、詳細な工法などが明らかになりました。

調査に当たった財団埋蔵文化財調査室の安部和城学芸員は、「今まで不明だった、中世から現代にいたる門司港エリアの形成過程が明らかになった。明治期に港、鉄道、都市が歩調をそろえて整備されていった経過が分かる」とします。

2024年2月には、ユネスコの世界遺産の評価で知られる日本イコモスが現地調査しています。

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