※2025年6月撮影

トップ画像は、南千住駅からグルグル歩いてようやくたどり着いた「土手通り」。

吉原方面に歩いていたら路傍に「台東区立一葉記念館はこの先」という案内を発見。そちらに歩きました。

それが思ったよりも遠かった。(笑)

でも「一葉煎餅」のお店もあって流石に樋口一葉の住んだ場所だと感じました。

※2025年6月撮影

「土手通り」の案内看板から400メートル程で、「一葉記念公園」に着きました。隣に「台東区立一葉記念館」があります。

※2025年6月撮影

右の石碑の文章が味わい深かったので写します。

「ここは明治文壇の天才樋口一葉舊(旧)居の跡なり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の龍泉寺町の面影を永く偲ぶべし。今町民一葉を慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。

菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和11年7月のことなりき。その後軍人國を誤りて太平洋戰争を起し、我國土を空襲の惨に晒す。昭和20年3月この邊一帯焼野ヶ原となり、碑も共に溶く。

有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらる事かくの如き作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。僕代わって蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。

昭和24年3月

小島政二郎補並書

森田春鶴刻」

文を草したのが作家の小島政二郎さん。

ここからちょっと樋口一葉から離れます。

小島氏が晩年に書いた「小説 永井荷風」が遺族の反発で出版できなかった事がありました。問題の小説は、氏の死後に刊行されています。

筆者の敬愛する川本三郎氏、丸谷才一氏などがこれを激賞。筆者の書架には、ちくま文庫版があります。

『三田文学』を創刊したのが慶応大学教授時代の永井荷風であることはつとに有名ですが、小島政二郎氏も慶大生時代『三田文学』に作品を発表することから作家になりました。その後慶大の教授になって師荷風の跡を継いでいます。

公園には「一葉女史たけくらべ記念碑」もありました。右に「一葉記念館」の一部が見えます。

2025年6月撮影

右脇の説明パネルの内容です。

「近代文学不朽の名作「たけくらべ」は、樋口一葉在住当時の竜泉寺町を中心に吉原界わいが舞台となった。これを記念して昭和26年11月、地元一葉記念公園協賛会によって建てられ、その後台東区に移管された。

碑文は女史の旧友歌人佐佐木信綱博士作ならびに書による次の二首が刻まれている。

台東区教育委員会

紫の古りし光にたぐへつべし

君ここに住みてそめし 筆のあや

〈一葉女史たけくらべ記念碑〉の大きな題字

そのかみの美登利信如らも この園に

来てあそぶらむか 月しろき夜を

佐佐木信綱」

美登利、信如は「たけくらべ」主人公の名前です。

佐佐木信綱氏は岩波文庫『山家集 西行』『新古今和歌集』の校訂編者として筆者も名前を知っていましたが、樋口一葉と旧友だったとは、知りませんでした。

二人は同じ1872年(明治5年)生まれです。

ここでまた、筆者が如何に遠回りをしたのか、Google mapに黄色いラインを引きました。緑の方向に歩けば、200メートル程だったのです。実際は、グルッと800メートル以上歩きました。

※©Google map

南千住駅からここまで既に3km程歩いています。猛暑日に近い気温だったので、流石に熱中症が心配になりました。

気をつけて多めの水を飲む様にしました。おかげでTシャツは絞れるほどの汗です。千束稲荷神社の宮司さんに「どうしたんですか?」と最初に訊かれた程ビチャビチャでした。(笑)

では「台東区立一葉記念館」を見学します。3階建ての大きな建物です。

※2025年6月撮影

入館料は、入って正面の受付で300円払います。

※2025年6月撮影

少し汗を乾かしてから館長さんにご挨拶しました。コラムの説明をして撮影・掲載の許可をいただきました。

1階のライブラリーからギャラリー。

※2025年6月撮影

「一葉記念館」のサイトに様々な案内があります。

この中に一葉というペンネームについて書かれていました。

「(ペンネームは)昔インドの達磨大師が、中国の揚子江を一葉の芦の葉に乗って下ったという故事に因んだもので、一葉は「達磨さんも私も、おあし(銭)がない!」としゃれていたといわれています。」

貧苦に喘ぐ中でも、一葉の聡明な毅さに打たれます。

吉原今昔図。細かく見ているととても興味深いので、思わず時間を過ごしてしまいました。

※2025年6月撮影

筆者は、日本で売春を禁止する法律が公布された年(昭和31年/1956年)に生まれました。もちろん吉原遊郭の廃止後に成人しています。

吉原には今回の【駅ぶら】で初めて訪れるのです。

3階に上がって、展示室。

※2025年6月撮影

一葉は、1896年(明治29年11月23日)に24歳で亡くなりました。

そのわずか1ヶ月ほどで刊行されたのがケース内、右側の『一葉全集』(博文館)でした。左は翌年に斎藤緑雨校訂で刊行された『校訂 一葉全集』(博文館)。

※2025年6月撮影

亡くなった直後の一葉の世評が、いかに高かったか、分かります。

2階展示室1。一葉の机が見えます。

※2025年6月撮影

この簡素な机が、哀しい程小さいのです。

2階展示室2。ここに一葉の直筆がありました。

※2025年6月撮影

一葉自筆「たけくらべ」未定稿。

※2025年6月撮影

達筆過ぎて、筆者にはほとんど読むことができません。

未定稿は、「下書き」です。

一葉は、明治28年(1895)1月から断続的に雑誌「文学界」に「たけくらべ」を翌明治29年(1896年)1月まで連載しました。これが「初稿」。

同年4月、博文館の『文芸倶楽部』に「たけくらべ」は一括で掲載されます。この「たけくらべ」が一葉自身によって初稿から一部改稿されているのです。

この『文芸倶楽部』を読んだ森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨ら巨匠たちが「たけくらべ」を激賞したことで樋口一葉の文名が急速に世に広がりました。

しかし、彼女は、この半年余り後、11月に、亡くってしまうのです。

「一葉記念館」で行われた相模女子大学名誉教授 戸松泉先生による講演の動画が再公開されています。(リンク先は YouTube です)

講演は約1時間です。「たけくらべ」の下書き、初稿、一括掲載稿についての細かな説明があります。

分かり易く、とても面白いので、樋口一葉と「たけくらべ」に興味のある方にはオススメします。

また余談です。筆者は、「たけくらべ」を学生時代に文庫本で読みました。しかし、明治の文語体、そのまま気楽に読み流せるものでは、全くありませんでした。

後年、現代語訳で、パラグラフ毎に内容を理解した上で樋口一葉の原文を読み直しました。それでようやく一葉女史の文章をじっくり味わうコトができたのです。

文語体が苦手な方には、この方法、オススメです。

展示の中で、筆者が「真剣に良いなぁ」と感じたのは、一葉が妹に与えた習字手本でした。

※2025年6月撮影

春はあけぼの やうやうしろくなりゆく山ぎは すこしあかりて むらさきだちたる くもの ほそくたなびきたる 夏はよる 月の

・・・までは、筆者でも読めました。

言うまでもなく枕草子です。しかし何と綺麗な字でしょう。

コピーを販売して欲しい、額装して飾りたいと強く思いました。

ま、三浦半島の拙宅陋屋に空いている壁面は無いのですが・・・。

名残惜しいですが「一葉記念館」を辞して、近くにある「一葉旧居跡」に行きました。

※2025年6月撮影

脇の台東区教育委員会による説明パネルには、以下の様に記載されています。

「樋口一葉旧居跡

台東区竜泉町3丁目15番

樋口一葉は明治26年7月20日、本郷菊坂町より下谷竜泉寺町368番地に移り住み、この界隈を背景にして不朽の名作「たけくらべ」や「わかれ道」の題材を得た。この碑の位置は一葉宅の左隣り酒屋の跡にて、一葉と同番地の西端に近く、碑より東方6メートルが旧居に当る。

なお一葉はこのあたりを

「鶉(うずら)なく聲(こえ)もきこえて花すすき

まねく野末の夕べさびしも」

と和歌に詠んでいる。

昭和51年11月(一葉歿後80年) 台東区教育委員会」

・・・と言うコトは、石碑の右5メートルに樋口奈津・一葉が一家を支えながら暮らしていたのですね。

※2025年6月撮影

一葉旧居跡から、次は吉原神社を目指しました。

次回は、吉原神社からです。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などはつくばエクスプレス(首都圏新都市鉄道株式会社)の許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

首都圏新都市鉄道株式会社 会社要覧2024

るるぶ情報板関東31 つくばエクスプレス JTBパブリシング 2025年5月1日

つくばエクスプレス沿線アルバム 生田誠 山田亮 アルファベータブックス 2023年8月5日

つくばスタイル No.12 枻出版 2011年4月10日

つくばエクスプレス 最強のまちづくり 塚本一也 創英社 2014年10月23日 他