終戦翌年に歴史がスタート

さて、ここからは新京成のあれこれをご案内。歴史は終戦翌年の1946年にスタートします。有名な話ですが、新京成の路線の多くは鉄道連隊が建設した軍用鉄道がルーツです。陸軍鉄道連隊は、鉄道の建設や保守が主な役目。連隊が敷設したのは新京成のほか、千葉県営鉄道野田線(現・東武アーバンパークライン)、同じく久留里線(JR久留里線)など。今も営業中の鉄道が多くあります。

ちなみに、新京成の線路は非常にカーブが多い。訓練用に線路をわざと曲げたとの説もありますが、どうやら規定の線路延長(45キロ)を確保するため、路線をうねらせたようです。

新京成は京成の子会社ですが、設立前には、西武鉄道との引き合いがありました。西武も軍用鉄道の営業転用をもくろんでいたのです。京成vs西武は千葉県に事業基盤を持つ京成に軍配が上がりましたが、「もしも西武だったら、どんな電車が走ったか」と考えると空想をかき立てられます。

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1947年、最初に開業したのは新津田沼(初代)―薬円台間2.5キロで、終点の松戸に到達したのは、8年後の1955年。千葉の鉄道史によると、全線が軍用鉄道通りでなく、ショートカットした区間もありました。みのり台―松戸間(3.0キロ)は、新京成が建設した新線区間です。

こちらは1955年の全線開業時の松戸駅での花束贈呈。開業時に半年間だけ京成千葉線へに直通運転されたとの記録があり、電車の行き先表示は「千葉行き」になっています(画像:新京成電鉄)

土地と全線パス無料で差し上げます

新京成の歴史を調べていたら、こんなこぼれ話も見つかりました。開業当初の新京成、何とか沿線住民を増やそうと、「1年以内に家を建ててくれれば、鎌ヶ谷大仏駅付近の土地80坪(約260平方メートル)をただで差し上げます。電車の無料パスも付けます」とチラシを配って宣伝しました。しかし、応募はたった1件だったそうです。

新京成の歴史に関しては、3回の改軌(開業時は国鉄・JR在来線と同じ1067ミリ。1953年に親会社の京成と同じ1372ミリに。さらに1959年に現在の1435ミリに。最後の改軌は京成の改軌〈1959年10月〉に向けた予行演習の意味合いもあったようです)など、鉄道ファンに興味深い話題がまだまだあります。機会があればご紹介しましょう。

8線の鉄道に連絡

話を現代に戻します。前にも書きましたが営業キロは全線で26.5キロ、駅数は24駅です。カーブが多いのはさておき、路線自体も津田沼と松戸を直線で結ぶというより、東側に膨らんで見えます。ただこれには一理あり、鎌ヶ谷市が現在のように首都圏のベッドタウンとして発展したのは、新京成、そして一部並行する東武アーバンパークラインの力が大きかったといえるでしょう。

路線は多くの鉄道と連絡します。京成津田沼で京成本線(京成千葉線も)、新津田沼でJR総武線、北習志野で東葉高速線、新鎌ヶ谷で北総線、成田スカイアクセス線、東武アーバンパークラインの3線、八柱でJR武蔵野線、松戸でJR常磐線と8本もの鉄道に乗り換えられます。千葉県の鉄道は東京から放射状に延びる路線、県内を南北に縦断する路線に区分できますが、新京成は南東から北西方向へ斜めのルートをたどるため、多くの路線に連絡して、使い勝手の良さを発揮します。